19.明治時代の伊予(1)

明治維新は薩長による軍事クーデターです。

エネルギーの中心となったのは水戸学で洗脳された武士たちで、突然自宅に土足で上がりこんだ不審人物を追い返そうとするがごとき“尊皇攘夷”という名の情熱が倒幕を可能にしました。

しかも、旧時代の支配者である大名・武士が自らの特権を放棄し(廃藩置県・版籍奉還・廃刀令・秩禄処分)、新時代の天皇に仕え中央集権国家建設に協力するという一大転換が無血裡におこなわれました。

300年間なんら不自由がなかったとはいえ、我が国は鎖国という徳川氏の保身術のおかげで、気がついてみると欧米からすっかり取り残されていたのです。

産業革命の産物である蒸気機関を積んだ黒船が、不気味な煙を吐きながら江戸湾に侵入し、江戸市中に響き渡る大砲を発射したとき、住民の多くは未知の怪物が出現したかのように震え上がったといいます。

しかも我が国にとって常に文明流入の源であった中国が、欧米列強の属国になり下がっているのに驚愕した維新政府は、ただちに徴兵制を実施し富国強兵に努めます。

また、欧米から数百人の教師を招いて産業の育成、教育の充実に躍起となります。

欧米の植民地になっては大変だという、切羽詰ったあせりが痛いほど感じられます。

農業だけで自給自足してきたわが国には、開国したとはいえ、外国へ輸出できるものはわずかに生糸だけという有様でした。

伊予八藩はほとんどが佐幕派です。

特に幕末にいたり、松山藩主松平定昭は幕府老中に就任しますが、わずか1ヶ月で大政奉還となり、失職しました。

戊辰戦争の開始と同時に藩論は2つに割れましたが、藩主定昭が蟄居し、官軍に恭順の意を示すことで決着します。

宇和島藩は鳥羽伏見の戦いでは中立の立場をとりますが、のち維新政府より江戸・函館への出兵を命じられます。

また他の諸藩も奥州・越後・会津へと参戦しました。

やっとのことで維新政府はスタートしますが、実のところ、政府に財源などまるっきりありませんでした。

したがって三井などの財閥から借金するか、各藩から資金を調達せざるを得なかったのです。

朝的となった松山藩には、戦費15万両の献納が求められました。

当時、松山藩の金庫は空同然でしたが、必死の工面で資金調達し、なんとか危機を乗り切りました。

宇和島藩は旧藩主伊達宗城が政府の要職を歴任しますが、藩自身は戊辰戦争での中立がたたり、政府中枢へ人を送り込むことは出来ませんでした。

2年、薩長土肥が版籍奉還したのに続き、伊予各藩はそろって版籍奉還に従いました。

当時の県内人口は78万人ですから、今のちょうど半分ぐらいでした。

明治に入り、キリスト教の信仰が急速に広がり、個人主義、自由主義など新しい思想が紹介されるなか、福沢諭吉の“学問のすすめ”“文明論之概略”がベストセラーとなりました。

その主旨は“西洋文明の導入を目的と考えてはいけない。

あくまで目的達成のための手段とするべきである”というものです。

諭吉は人文・社会科学の研究をめざして慶応義塾を、新島襄はキリスト教による人材育成を目的に同志社をそれぞれ創立しました。

明治6年の政変で、西郷らとともに下野した板垣退助は、四民平等を唱え、国民の参政権と国会の開設を求め、郷里土佐で立志社を立ち上げます。

情熱家の板垣は、自分の出自である山内侍が260年間も土着の長曾我部侍を押さえつけてきたことへのわだかまりや、戊辰戦争の指揮官として会津攻略に出向いたとき、住民の心が会津藩士からすっかり離反し、官軍に好意的ですらあった事実に驚き、これからは四民が苦楽を共にせねばならないと心に念じたといいます。

板垣らの自由民権運動は急速に全国へ広がり、各地で盛大に講演会が開かれ大久保政権を揺さぶっていきます。

伊予においても自由民権運動が高まりをみせ、土佐の立志社にまねて公共社がつくられました。

しかし立志社のように急進的なものではなく、官民調和を基本とする穏やかな内容でした。

こうして全国に広がった政治結社が集まり国会開催を求めますが、政府に受理されず、板垣中心に自由党が結成されました。

これと相前後して明治14年に県内初の政党である松山自由党が結成されました。

こうした自由民権運動の高まりに政府首脳(岩倉・伊藤ら)は、即時国会開催を叫ぶ参議大隈重信を罷免し、10年以内に欽定憲法の制定と国会の開催を約束します。

大隈は野に下って立憲改進党を結成しました。

これに先立ち、伊藤博文は、岩倉使節団の一員として欧米を視察した結果、一刻もはやく先進国に追いつくためには、立憲政治を確立する以外にないと決心します。

当時アジアには立憲政治国がなく、有色人種には無理だという空気が、欧米諸国の間にありました。

そういう状況下で、伊藤は草案を何度も推敲した末、明治22年、大日本帝国憲法(明治憲法)の発布にこぎつけます。

さらに翌年、帝国議会が開かれて我が国初の立憲政治がスタートし、伊藤自身が初代内閣総理大臣となりました。

この後、在野では大隈が板垣と組んで、明治33年、わが国初の政党内閣を組閣しました。

また大隈は佐賀藩の丸暗記教育の弊害を憎むところが多く、自由で自主的な学問をめざし東京専門学校(のちの早稲田大学)を創立しました。

明治5年、岩倉使節団とともに5人の少女が留学生として渡米しました。

このうち最年少8歳の津田梅子は、10年間を自由と男女平等主義の横溢するアメリカで思う存分堪能します。

そして帰国後、封建社会でがんじがらめになった日本に失望した梅子は、逃避するように再渡米しますが、熟慮の結果、祖国の女性の地位向上のために生涯をかけるべきだとの結論に達し、意を決して帰国。

明治33年、36歳で女子英語塾を創立します。

最初は10人の学生でスタートしましたが、地道な努力の結果、徐々に女子英語教育のメッカとしての名声を得、現在の津田女子大学にいたっています。

一方、シーボルトの娘イネは別格として、わが国初の政府公認の女医となったのが、萩野吟子でした。

彼女は夫から性病を写された挙句、離縁を言い渡され、男性医の前で屈辱を味わいながら病院通いをします。

この経験から彼女は女医への道を模索します。

現在のお茶の水女子大学を主席で卒業後、神田の好寿院へ例外として入学できますが、様々ないやがらせに耐え3年で卒業。

前例がないと国家試験を拒否されつつも、古文書から女医の歴史を説き、やっと内務省から受験資格をえます。

明治18年、34歳で女医となった吟子は、以後、女性患者のため存分に腕を発揮しました。

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