15.陽明学の祖 中江藤樹

中江藤樹は伊予が生んだ江戸時代を代表する大学者のひとりです。

彼はもともと近江の出身ですが10歳のとき、祖父の主君加藤貞泰の転封に伴い米子から大洲へやってきました。

大洲藩士となった中江藤樹は、独学で四書十三経、哲学、宗教、医学、文学に精通するという天才ぶりを発揮し、評論家小林秀雄から“近世学問世界での天下人”と絶賛されています。

彼の陽明学は上下の封建的秩序を重んじる朱子学に批判的で、より近代的な平等主義をとったため、幕府からは幕藩体制に批判的な思想家として危険視されました。

彼は20代ですでに独自の思想体系を構築し、慕って集まってくる藩士たちに講義をして聞かせるまでになります。

27歳のとき、2代藩主と合わず脱藩して近江へもどりますが、親兄弟・自然にたいする孝が第1と唱え、41歳で死去するまで私塾教師と著述の生活を続け、陽明学者としての一生を全うしました。

江戸時代の学問の特長は、それまで公家や僧侶がおこなっていた学問を、戦闘する必要がなくなった武士が始めたところにあります。

また、我が国では士農工商という身分制度がはっきりしていたため、中国から儒教を取り入れたものの、官吏登用試験はおこなわず、あくまで武士の教養として学ぶという範囲にとどまりました。

家康に登用された林羅山は“朱子学”(宋の朱熹が確立)を幕府の学問の中心におきました。

ただ、朱子学を人民に無理やり押し付けることはしなかったため、批判することも可能でした。

このため江戸中期には荻生徂徠や伊藤仁斎が出て、朱子学には仏教や道教理論が混入しており純粋な儒教でないとして、孔子・孟子の原典にもどろうとする“古学”がおこりました。

また、同じ儒教でも形骸化した朱子学を批判して、知行合一など実践理論を説く“陽明学”(明の王陽明が確立)が中江藤樹により広められました。

このように江戸社会では比較的自由な学問がおこなわれていましたが、江戸後期寛政の改革を担当した松平定信により、幕府の学問所では朱子学以外の学問を禁じたため(寛政異学の禁)、伊予諸藩もこれに習うようになりました。

幕末に至り諸外国の船が日本近海に出没し始めると、世界情勢を知ろうとする武士・庶民のなかに“蘭学”や“洋学”をめざすものが続出し、また一方では日本の古典にもどり、わが国本来の姿を追い求める“国学”も興ってきました。

江戸の諸藩には学問好きの藩がありますが、そのほとんどが小さな藩という特徴があります。

学問でしか藩の存在感を示す手立てがなかったということでしょうか。

伊予大洲藩もその例にもれず、歴代藩主は学問好きであったようです。

8藩のなかで最も早く藩校(止善書院明倫堂)を設立し、中江藤樹以来の陽明学を尊び、5代藩主加藤泰温により陽明学者川田雄琴が江戸より招聘され、大いに興隆しました。

またこれとほぼ同時期に、宇和島藩では5代藩主伊達村侯(むらとき)の藩政改革に伴い内徳館(のちに明倫館)が設立され、武士・庶民がともに学ぶ士庶共学が奨励され、古学(孔子孟子の原典にもどる)が主流となりました。

この2藩以外は朱子学を藩の学問としましたが、江戸後期、寛政異学の禁で8藩すべてが朱子学に変更されました。

特に松山藩では藩主松平定通が寛政の改革者松平定信の甥ということもあって、明教館が設立され朱子学の興隆をみました。

各藩校では四書五経・小学・近思禄・左伝・史記などの素読・会読・質問がおこなわれたほか、大洲藩以外では武道も奨励され、剣術・弓術・馬術・槍術・砲術・水泳が必須でした。

このほか一般庶民を対象に、大洲の坂本塾(古学堂)はじめ各地に私塾が設立されました。

また幕末にいたり蘭学塾への遊学が盛んとなり、華岡青洲塾、緒方洪庵の適塾など、松山・大洲・宇和島藩から300人をこえる入門者があったといいます。

さらに宇和島藩からは、長崎のシーボルト・ボードインへの入門がみられ、多くは医学の分野であったため、卒業後は地元で医師として活躍したようです。

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