8.室町の覇者 河野一族

鎌倉幕府が開かれると、河野水軍の将、河野通信(みちのぶ)は源平合戦の最終戦、壇ノ浦での活躍を評価され、頼朝より伊予の国最大の武家にとりたてられました。

しかし、その後承久の変で後鳥羽上皇を支持したため、河野家は没落、衰退の一途をたどります。

その後、蒙古襲来の弘安4年にいたり、河野通有(みちあり)が 博多湾において敵艦に乗り込み、敵の大将を生け捕りにした功で幕府に認められ、家運を回復しました。

さらに室町時代にいたり、河野通盛(みちもり)は尊氏に味方し河野家は中興され、以後河野氏は松山の道後の地に湯築城を築き、ここに拠点を移します。

鎌倉期、荘園において強引な年貢の徴収権を発動し、荘園領主から領地を取上げていった地頭にくらべ、守護は犯罪者の取り締まりや裁判が主たる仕事であるため、あまり実入りがありませんでした。

室町期になり、尊氏は京都周辺の守護を味方につけようとし、観応の半済令を出して近江・美濃・尾張の3国にかぎり、1年限定で荘園の収入の半分を守護のものとしました。

しかし各国の守護はこの半済令を尊氏の名で勝手に全国へ拡大し無期限にしてしまいました。

これにより、荘園領主は収入の半分を取られるよりはむしろ守護に土地を分割したほうがましだと考えます。

こうして荘園領主から土地を獲得していった守護は権限を拡大し、税金をも取り立てるようになりました。

そして在地の国人(在地領主)を自分の家臣団に組み入れていき、あたかも一つの国の領主のごとき様相をとるようになっていきます。

こうして守護はその職を世襲制とし、守護大名として強大な権力を握っていきました。

その後、足利義満の時代に入ると、彼は一族ではあるものの余りに強大となった細川氏の勢力を弱めるため、伊予の守護職を細川氏から河野氏に移譲し、河野氏に伊予の知行地を安堵しました。

河野通直は 最初北朝方について働きますが、のち自領をおびやかす北朝方、阿波の細川氏を討つため一転南朝方となり、今度は南朝より伊予の守護職に任命されます。

その後、細川氏との抗争を無意味として、再度足利義満に通じた彼は、かえって細川氏の追討命令をうけますが、無念の戦死をとげます。

その後、義満によって伊予国守護に起用された河野通義(みちよし)は、上洛して在京する守護20数家の末席に加わります。

このため幕府からはたびたび軍事出動の要請をうけ、何度も出陣を繰り返さざるを得ませんでした。

足利義満以後凡庸な将軍が続き、幕府経済は衰退の一路をとります。

そして6代将軍足利義教が部下に暗殺されるという事態にいたり、将軍家の権威は完全に失墜し、諸国の支配権は完全に守護大名に移っていきました。

さらに1465年応仁の乱が勃発すると幕府権威の低下は目を覆うばかりとなり、京の都を中心に天下は細川氏(東軍)と山名氏(西軍)の私闘の様相を呈して行きます。

さらに中国通商問題においても、堺商人とむすんだ細川氏と博多商人と結んだ大内氏が勘合貿易の実権をめぐって争うようになります。

こうした混迷のなか伊予の守護、河野通之は最初大内氏を相手に戦いますが、その後、河野通春の代になってこれを解消し大内氏と連合して上洛。

これにより西軍は劣勢を挽回します。

しかし、河野家は相続問題にからむ内部抗争に明け暮れたため、伊予国内で強力な支配権を確立できず、戦国大名にはなりきれませんでした。

伊予の国は東から東予・中予・南予に分けられます。

河野氏が伊予の守護になったとはいえ、中予を中心とした地域であって、東予のうち宇摩郡と新居郡はなお細川氏の支配権が及んでいました。

一方、南予はもと伊予の守護・宇都宮氏が喜多郡を、もと伊予の知行国主であった西園寺氏が宇和郡を、またさらに南の地域は御荘氏がそれぞれ支配していました。

この時期伊予国内で都市といえるところは、河野氏の本拠地湯築城のある道後、府中(今治)、西園寺氏の松葉城がある宇和町くらいでした。

戦国後期にいたり、伊予の南部は土佐の長宗我部元親に攻撃されるようになります。

一族の内部紛争で弱体化した河野氏は、自力でこれに対抗できず、河野通宣は毛利元就の孫と結婚、また河野通直は毛利輝元の姪と結婚し姻戚関係を結んで毛利氏の援助をたのみます。

しかし、天正13年、秀吉の四国総攻撃が開始されると、河野通直はその圧倒的な軍事力を前に、戦わずして小早川隆景軍に降伏し、ここに河野家は400年の歴史に幕を引き滅亡したのです。

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