7.義満の伊予戦略

室町幕府は実に貧乏な政府でした。

幕府の存在を歯牙にもかけない守護大名が国内に何人もいて、それぞれ勝手に自分の独立国を治めていました。

将軍が自由にできる土地は10分の1程度でした。

当然収入は少なく、関所や港で税金をとったり、徳政令を悪用したり、勘合貿易で卑屈に利益を上げたりと、やりくりに大変苦労していました。

勘合貿易の実態は、貿易とは名ばかりで、朝貢の礼に対し明国皇帝が何倍にもして返礼するという儀式であり、明国の出費は甚大でしたが、幕府はおかげで随分潤ったようです。

1358年、尊氏が53歳でこの世を去った後、入れ替わるように孫の義満が誕生します。

室町幕府は開闢以来、足利一門の細川一族に四国の統治を任せてきました。

唯一、伊予への勢力の浸透は不十分でしたが、四国のほとんどを守護領国化した細川氏の基盤は強く、150年におよぶ支配は大きな影響を及ぼしました。

しかしこのなかで伊予だけは、中・四国最大の南朝勢力の拠点として、細川氏に対抗していました。

その後紆余曲折を経て義満の時代となりますが、彼は中央でも権勢をふるった細川氏の力を封じ込めるため、伊予の守護職から退けて東予の一部のみの支配とし、河野氏に伊予の守護職と知行地を安堵しました。

つまり、彼は伊予の国を四国戦略上、細川勢力の防波堤にしようとしたのです。

こうして義満によって伊予国守護に起用された河野通義は守護職の世襲に成功し、上洛して守護20数家の末席に加わり、幕府に恭順の意を示しながら、以後200年にわたり室町期を乗り切っていきます。

しかし、河野家内部に内輪もめが絶えず、内部抗争に明け暮れたため戦国守護大名になりきれず、伊予国内での権力支配を打ち立てることはできませんでした。

ところで、1392年、南朝の衰退により南北朝合一を成し遂げた義満は、勢力を持ちすぎた守護の力を弱めるため、3カ国の守護土岐康行、6カ国の守護大内義弘、11カ国の守護山名氏清らの相続争いに介入し、彼らを没落させその領土を吸収合併しながら将軍家の力を強めていきました。

義満は稀に見る強運の持ち主で、彼ほどあらゆる権力を手中にした人物は史上稀でしょう。

彼は京の室町にある通称“花の御所”で政治を行い、36才で将軍職を義持に譲った後は、南北朝の合体にかこつけて朝廷の力を弱体化し、みずから太政大臣となって朝廷を牛耳ってしまいます。

さらに1年後には出家して法皇に準ずる地位を得、法曹界の権限をも手中にします。

ところで、義満の時代はちょうど日本社会の2大勢力の転換期にあたっていました。

ひとつは従来の農業を中心とする勢力で、この時期、鉄鍬が安く入手できるようになったおかげで水田の開墾が進み、米の収穫が飛躍的に増えてきました。

この農業を基盤に租税をとる地頭・御家人体制に対し、商人、金融業者を軸に流通・交易をおこなう商業勢力が勃興し、農業勢力を圧倒するようになります。

義満はこの変化を見逃さず、商業に重心をおいた経済政策を推し進め、かつて後醍醐天皇がめざして果たせなかった夢をほぼ実現することに成功します。

こうして朝鮮、中国との交易関係は義満の貿易推進政策で、順調に発展します。

それに従い瀬戸内海沿岸には続々と都市が形成されていきました。

荘園・公領も代官の請負が一般的となり、山伏や禅宗の僧侶が金融業にたずさわり、荘園の請負を専業的にやるようになりました。

義満は政治的にも経済的にも存分に手腕を発揮し、室町時代を通じもっとも隆盛を極めた時代を演出しました。

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