6.一遍上人の世界

信仰はその世界にいる人が夢中になればなるほど、外側にいる人には近づき難い違和感を持たれがちです。

念仏や題目を唱えるのは、精神を一点に集中するための所作にも見えますが、踊りながら念仏を唱えるとなると、鎌倉時代でも違和感を感じる人は多かったに違いありません。

伊予の人、一遍は仏門の権威や組織に属さず、宗教人としては当時全く無名の存在といっていいでしょう。

大宰府で浄土教を学びいったん還俗(僧侶をやめる)しますが、生死の無常を感じ再度出家し、伊予の窪寺で念仏修行に明け暮れます。

そして、極楽浄土に行けるのは学問ではなく、南無阿弥陀仏と念仏を唱えることによってのみ可能になるという悟りに達し、全国布教の旅にでます。

そして、夢の中で熊野権現から念仏札を配るべしというお告げを聞き、岩手から鹿児島まで、超人的な全国行脚をおこないながら念仏札を配り、同時に阿弥陀仏に救われる歓喜の気持ちを表す踊念仏を広めていきます。

このあたり、新興宗教の開祖たる人物像が髣髴と浮かび上がってきます。

当時の寺社の僧侶からみれば、踊りながら念仏を唱えるなど、不謹慎にもほどがあるとして一斉に攻撃され、武士や貴族からは“いかさま坊主”という目でみられ、行く先々で迫害をうけたことでしょう。

彼は遊行ですから、寺も教団も持っていません。

経済的基盤もなく、15年間も全国を歩くのは容易なことでなかったとおもわれます。

彼の教えは南無阿弥陀仏と書いた札を受け取りさえすれば救われるという実に簡単なもので、心の浄・不浄、善人・悪人を問わぬばかりか、信心の有無さえ問いません。

このため河原者・遊女・金貸し・博徒など、当時世間から蔑まれていた人たちに爆発的な支持を受けました。

そのうえ、舞台の上で下腿もあらわに踊る念仏は、多くの民衆の興味を引いて、瞬く間に信者を増やしていきました。

彼の遊行に従った人たちは時衆と呼ばれ、徐々に農民層や武士層にも広く支持層を伸ばしていきました。

一遍の一生を通観するに、彼は宗教人として特別超人的な行いをしたわけではありません。

にもかかわらず、一遍が多くの人々から上人とあがめられたのは、当時の僧侶があまり振り返らなかった底辺にいる人々に、深いいつくしみの目を注いだということを忘れてはならないでしょう。

彼の教えは室町期に入って一大勢力をなすに至りますが、入信にあたり余りにも門戸を広げすぎたため、かえって信仰のありがたみが失せ、その後、時代を経るに従い徐々に力を失っていきました。

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