1.はじめに

古来われわれ日本人は、中国大陸を通して世界をみてきた。

たとえば儒教のおかげで徳を積むということを教えられ、礼節を重んじるようになったし、仏教のおかげで信仰・救済という安寧を得た。

唐から律令制を採り入れ、曲がりなりにも国家らしい装いを整えることができた。

ところが江戸時代に入り、ペリー来航までの260年間、頭から頬かむりして国家的引きこもりに入ってしまった。

自然、ひとりよがりな思考にふけり、国粋主義や排他的な攘夷思想がはぐくまれていったものと思われる。

アジアの一部とはいえ、鮮明に海で境された孤島である。

隣地との間に線を引いただけで接している大陸諸国とは大いに異なる。

外部からの干渉が少なく、内内でことが済むため仕事の場は義理人情の世界と化し、馴れ合いの歴史をつづってきた。

革命がおこらなかったのは当然といえる。

処世術として以心伝心でことを済ますのをよしとし、更には、対極にある意見のどちらにも解釈できる“玉虫色の世界”を創りだした。

外からみると透明感のない国家像ができあがり、そのなかでは絶対唯一無二という思考は育ちにくい。

宗教に関して節操がないといわれるのもこの価値観と無関係ではない。

それは開国前の昔話しだと一笑に伏せるだろうか。

それほどいまの世は、昔に比べ上等になったといえるだろうか。

たとえば、政界は芸能化が進み、見かけやパフォーマンスに衆目が集まり、言動を吟味することがおろそかになっている。

マスコミの姿勢も均衡を欠き、一部には国家権力追随の気配すら感じる。

さらにメディアの品位についてである。

ひとつ事件が起こると夢中になるが、次の事件が発生するとそちらに走り、前のは置き忘れてしまったかのような印象をうける。

被害者家族は風化させまいと躍起になるが、いつまでも関わってはくれない。

熱しやすくさめやすい。

また事件が起こるたびに、被害者家族にマイクを突きつけ心境を尋ねる無神経はどうであろう。

それをやめないのは、世間がそれを知りたがっているからにほかならない。

マスコミは世間の期待を写す鏡といえる。

さらに近年、食べ放題飲み放題という文化が日本を覆っている。

必要なものを必要なだけ摂る文化に比べ、明らかに退化している。

節操がなくなれば、心もからだも、衰退の方向へ向かわざるを得ない。

かくのごとき文化が我が国に根付くとも思えない。

また外国とのほどよい通好がなかったため、いまだに交際下手との評価は変わらない。

が、それは時間が解決しよう。

重要なのは、自分たちが持たざる国であることをうかつにも忘れていることではないか。

日本をとりかこむ諸外国がいっせいに引き上げたら、国家もろとも我らは路頭に迷うことを心配せねばならない。

また、われわれは文化人顔をして平然としているが、つい3代前は幕末を経験した江戸人である。

頭には辮髪とさして変わらぬ髷を結い、腰に大小をさして歩いていた。

粥に山菜という粗食に甘んじ、狭い板間のごとき家に住み、日が暮れれば薄暗い行灯の下で、夜を過ごした。

しかし、この頃よりも今の生活が10倍豊かになったからといって、我々が10倍幸せになったということにはならない。

幸・不幸はあくまで本人の気の持ち様によるからである。

そんな思いから、わが祖先の過ごした伊予の風景を心に描き、歴史の潮流のなかでいかに過ごして来たかにおもいを馳せてみることとした。

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