マインツ旅情

lapping / Pixabay


ドイツの空の玄関口は政治都市ベルリンではなく金融都市フランクフルトであり、ヒースロー(英)、シャルルドゴール(仏)と並び、ヨーロッパの代表的ハブ空港である。

マインツはフランクフルトから車で1時間という利便性があるため、ただちにそちらへ向かうことにした。

人口20万ほどの地方都市である。

この街には10世紀に建てられたというカトリックの聖シュテファン教会がある。

世界中からここを訪れるひとは一様に、年老いたシャガ-ルがステンドグラスに描いたカラフルな聖書の物語にみとれるようである。

聖シュテファン教会に入ってすぐ、入り口付近のテーブルに、一見して年代物と知れる聖書が置いてあった。

手に取るのもためらうほどの代物で、やり過ごしたのだが、あとでここは活版印刷発明者のグーテンベルグの出身地であることを知った。

なるほどあの古書は、ドイツ人自慢の品であったかと思った次第である。

なにしろグーテンベルグといえば、2000年を迎えるにあたり、A&E ネットワークが選定した「紀元1000年代の人」ランキングで1位に選ばれた人である。

室町中期の1450年ころ、我が国の民衆が文盲であったとおなじく、ヨーロッパにも文盲が満ち溢れていた。

如何せん、読もうとしても本そのものがないのである。

一部のインテリだけが写本に頼って文字にふれていた時代である。

ヨーロッパ全土はすでにキリスト教世界であり、ローマ教皇が、白を黒と言わせるほどの絶大な権力を握っていたから、彼に謀反を唱えたものは火あぶりの刑に処せられても文句はいえなかった。

事実そうであった。

出版物の中心は聖書である。

写本一冊つくるのに一年かかっていた時代に、一挙に大量の聖書が出回り始めた。

文字を覚えれば、教会の神父からしか聞けなかった話が、自分の目で確かめられるようになったのである。

神父はうかうか曖昧な話しはできなくなったであろう。

「よらしむべし。

知らしむべからず」という教会権威は揺らぎ始めた。

まして当時、サン=ピエトロ大聖堂の改築資金を捻出するため、教皇レオ10世はマインツ大司教に免罪符の発行を命じた。

金さえ出せば天国に行く切符を分けてあげますというほどの人を食った話しである。

つまり、最初は、罪を告白し、悔い改めた者はお金を出すことにより罪の償いを免れるとしていたが、のちに免罪符を購入すれば罪そのものが許されるというふうに変化した。

免罪符を購入してコインが箱にチャリンと音を立てて入ると霊魂が天国へ飛び上がるというのである。

こんな打算が信仰に結びつくはずがない。

その不満のなかでドイツのヴィッテンベルグ大学教授マルチン・ルターが立ち上がる。

長年、ルターの頭を悩ませていたのは、パウロの「神の義」の思想であった。

いくら禁欲的な生活をして善行を積んでも、神の前で自分は正しいと断言することはできない。

ルターはこの現実に苦しみ続けたのち、人間は善行でなく信仰によってのみ義とされる。

つまり人間が義(正義)とされるのは神の恵みによってのみ可能となるという理解に達し、安寧を得た。

彼は「人は信仰によってのみ救われ、聖書のみが神の国を示す」と主張して、ローマ教皇の権威を否定した。

ローマ教皇を相手にするのだから命がけであるが、当時のドイツは分裂状態で皇帝の力が弱かったこともあり、運よく彼はザクセン選帝侯フリードリヒ3世の庇護を受けることができた。

無論これには利害が絡んでいる。

当時ヨーロッパ各地の教会税はバチカンの収益となっていた。

各国ともなんとかこの収益を自国内に止めたいと願っていたのである。

さらに免罪符を売られてその代金をローマへもっていかれたのではたまらない。

国を挙げて阻止に回った。

一方バチカンからみると、ドイツのように内部分裂した国では一致団結がないから、扱いやすい。

免罪符の販売にあたり、マインツ大司教を指名したのはこのような事情による。

ドイツ国内の諸侯は徐々にバチカン派とルター派に分かれ、互いに隙あらば相手の領土を奪おうと窺っていたのである。

これに対し、若きドイツ皇帝カール5世はローマ教会との関係を重視しルター派を拒絶したものの、ルター派諸侯をつぶすだけの力もないという状況であった。

そんな時、運悪くオスマン帝国が神聖ローマ帝国に攻め込み、ドイツ皇帝ハプスブルグ家の本拠地ウィーンを包囲するという事件がおこった。

イスラム教国にしてみれば、ルター派だろうとローマ教会だろうとキリスト教に変わりない。

区別して攻撃する必要はないのである。

このままではオスマン帝国にウィーンが占領されるという危機から、ドイツ皇帝はルター派諸侯の救援をえるためルター派の信仰を認めたのである。

こうして、一致団結してなんとかオスマン帝国の侵略を阻止できたのも束の間、カール5世は再びルター派を禁止してしまった。

これにはルター派諸侯が激怒した。

かれらは抗議する人という意味で「プロテスタント」と呼ばれた。

その後「プロテスタント」という呼称は進化し、ローマ教会を去った人々を指すようになった。

ルターが著したドイツ語訳聖書は稀にみる名訳で、ドイツ国民はそれまでラテン語のため理解できなかった聖書を、自分の目で確かめることができるようになったのである。

こうして彼らは教会任せから自立し、自分の頭でものを考え始めたのである。

ルターが灯したプロテスタントの火はスイス、フランス、イギリス、オランダと、瞬く間にヨーロッパ全土に燃え広がっていったのであった。

一方、カトリック内部でも反省の機運がおこり、イグナチオ・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルらが中心となり“イエスの集まり”を意味する「イエズス会」が設立された。

彼らは他人の批判よりもまず自らを戒め、教皇の命令を遵守することを誓った。

イエズス会の創立メンバーであるフランシスコ=ザビエルもインドの異教民族を改宗させるため宣教師としてインドに派遣され、のちに我が国へキリスト教を伝えたのである。

眼前のマインツは中世のにおいを残す静謐な街であるが、かつて宗教改革の嵐の真っただ中で身を焦がした激動の街だったのだと、しみじみ思ったことである。

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