トレドと石山本願寺

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数年前、自宅近くの道後温泉に弥生時代の環濠集落がみつかった。

集落は幅10メートルに及ぶ史上最大規模の環濠で囲われており、周辺に住む無頼の輩からしばしば略奪の被害にあっていたことが窺われる。

昔からひたすら生産に専念するひとびとと、産物の略奪を旨とするグループがいたことが分かる。

人間の習性というべきであろう。

どこの国に行っても、規模の大小はあっても環濠集落なるものが存在する。

略奪が嵩じるとそこの住民を追い出して集落を丸ごと乗っ取ってしまう。

集落防衛システムの確立は死活問題であった。

世界中の城の成り立ちはかくのごとき環濠集落の発展の歴史である。

マドリッドから車で南に1時間走ると、信長の時代から手つかずのまま400年間眠りつづけた都、トレドに着く。

400年も放置されたのは、スペインの君主が住居をマドリッドに移してトレドを見捨てたからである。

街を見下ろす高台に立ってトレドの旧市街を俯瞰する。

街全体が四方を幅数十メートルのタホ川に囲まれた小高い丘のうえに造られた天然の要塞である。

城壁に囲まれた街中は悠に1万人が住める広さながら、狭い石畳の路地が入り組み、容易に軍勢の移動ができないようにしている。

ここを落とすには夜襲か霧に紛れて侵入するしかないなと思わせる堅牢さで、いかにも難攻不落の観である。

ふと、石山本願寺が脳裏をかすめた。

信長を苦しめたかの地もまた、かくのごとき軍事要塞ではなかったか。

紀元前よりヨーロッパの西端イベリア半島(現在のスペイン・ポルトガル)はローマ帝国の支配下にあった。

後漢に追われた匈奴の一部が凶暴な騎馬軍団(フン族)となってヨーロッパに侵入。

ゲルマン人が西へ逃げ、西ローマ帝国が滅亡した後、イベリア半島に西ゴート王国をつくった。

560年、トレドはその都となった。

我が国に仏教が伝来した時期にあたる。

その後、700年ころよりイスラム教徒が北アフリカからジブラルタル海峡をわたってスペインに侵入。

圧倒的な攻撃力でわずか10年ほどでイベリア半島を席巻してきたのである。

これを迎え撃つため各地に軍事要塞が作られた。

トレドはその中心的存在であった。

しかし711年、難攻不落のトレドもついにイスラムの手に落ち、その後、イスラムの重要な軍事基地となった。

こんどはそれを400年かけてキリスト教徒が取り返すのである。

トレドはよほど防禦に適したとみえ、1000年にわたって要塞都市として生き続けた。

ここで平安末期の日本に目を転じてみよう。

平氏にあらずんば人にあらずといわれた時代、関東の片田舎から源頼朝が挙兵。

じわじわと源氏が平氏追討を果たしていく様は、イベリア半島の北へ追われたカトリック勢力が徐々にイスラム追討をはかる景色と重複する。

彼らはこれをレコンキスタ(国土回復運動)と呼んで正当性を誇示しているが、もともとイベリア半島がキリスト教徒の地であったわけではない。

ともかく15世紀末イサベル1世とフェルナンド2世が結婚しスペイン王国となって挙党体制を組んだことにより、イスラム勢力は完全に撤退することとなった。

我が国では武士が覇権を争った時代は鎌倉から室町にかけての400年間である。

三方を山に囲まれた鎌倉は、切通しをもって盆地を要塞化した。

室町期になると博多や堺では街の周囲を土塁と堀で囲み、戦国大名は小田原城のように城下町の周りに自然の河川や土塁を築いて要塞とした。

さらに一向宗の寺院も堀や土塁で囲われ、要塞化した。

その400年のうち、10年以上にわたって死闘を演じた合戦といえば、応仁の乱と石山合戦が記憶に新しい。

応仁の乱は京の都が舞台となり、おかげで街のほとんどが焦土と化した。

石山合戦は織田信長と石山本願寺の戦いである。

信長は上洛を果たした翌年、石山本願寺に対して京都御所の修繕費、矢銭5千貫を要求した。

さらに元亀元年(1570年)には石山本願寺の明け渡しを求めた。

これに対し法主顕如は信長の要求を拒否、全国の門徒衆に武器を携え本願寺に集結するよう檄を飛ばしたのである。

イエズス会のガスパル・ヴィレラが「日本の富の大部分は、この坊主の所有なり」と記したように、顕如は豊富な財力を投入し、本願寺を摂州第一の名城・石山本願寺城と呼ばれるにふさわしい城郭とした。

もともと石山本願寺は北を淀川、東を大和川に囲まれた小高い丘陵に築城され、瀬戸内海へ抜ける水上交通の要衡でもある。

まことに眼前のトレドと酷似した条件を備えているではないか。

本願寺は信長を相手に10年もの長きを戦い、ついに落城することはなかった。

とくに3度目の合戦で毛利水軍が九鬼の鉄船団に敗れ、1年半にわたり補給路を絶たれたにもかかわらず、本願寺は自前で食糧を調達しえたのである。

これほどの籠城戦を耐え抜いたためしは、後にも先にもないといわれる。

短気な信長の苛立った顔が目に浮かぶ。

天正8年(1580年)、結局石山合戦は顕如が本願寺を明け渡すことで決着したが、その直後、寺は跡形もなく全焼した。

顕如の嫡子教如の意図的行為ともいわれる。

信長の死後、焼け跡には豊臣秀吉により大阪城が建設された。

その寺跡は大阪城二の丸あたりに相当するといわれる。

石山合戦は史上最大の宗教戦争でもあり、その終焉により一向一揆に注がれていた炎は鎮火の途をたどった。

これ以降、教団が武装化することはなくなり、寺院は政権の統制下に入ることになった。

この時をもって、我が国における政教分離の基礎が築かれたといわれる。

石山本願寺は現存しないだけに、あれこれ想像する楽しみがある。

奇しくも信長とスペイン君主・フィリペ2世は同時代人で、ともに絶対君主である。

フィリペ2世がトレドを去ったあと、幸運にも街はそのままの状態で命脈を保った。

トレドの街並みを散策しながら、今はなき石山本願寺の幻影に思いをはせた次第である。

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