オランダ・ライデン紀行

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16世紀は「太陽の没することなき国」スペインの時代である。

スペイン・ハプスブルグ帝国の盟主・フェリペ2世はプロテスタントという疫病からカトリックを守る守護神であり、カトリック世界の期待を一身に集めている。

我が国では織田信長の時代にあたる。偶然だが、世の東西に信長、フェリペ2世という世界史に残る独裁者が同時に存在したのである。

ところで当時スペインの支配下にあったネーデルランド(低い土地)は、北海に面し、漁業でなんとか生計を立てるしかない恵まれぬ条件の地である。

そこに過激なプロテスタントのカルヴァン一派が勢力を伸ばしていた。

フェリペ2世にとっては、文字通り獅子身中の虫である。意を決したフェリペ2世は、この北海に面した低湿地帯の住民に片っ端から異端審問を行い、プロテスタントを弾圧した。

これに対して1568年、我慢できぬと立ち上がった北部ネーデルランドこそ、現在のオランダである。

ちなみに大人しくスペインに従った南部ネーデルランドは現在のベルギーにあたる。

その後オランダは、じつに80年にわたって宗主国スペインと戦い、ついに独立を勝ち取った。

しかも単にスペインから独立しただけでない。海面より低い低地に土を盛って国土にした。

彼らには、自分の国は自分の手で造ったという自負がある。オランダ人の性格を物語るうえでしばしば引き合いに出される、「自立、自助、忍耐、倹約」などどいう言葉の裏には、多大な犠牲を払ってやっと独立を勝ち得た苦労がにじみ出ている。

ナールデンの大虐殺

ナールデンの大虐殺」は、スペインとの80年戦争を象徴する出来事である。

あろうことか、スペイン軍はナールデンの城塞に籠城する住民を騙して城門を開けさせ、非情にも彼らを皆殺しにしたのである。この事件以来、ネーデルランドの住民は腹をくくって徹底抗戦を誓った。

予想どおり、年が明けるとライデンにもスペイン軍が押し寄せたが、住民は町を要塞化し、1年にわたる飢餓に耐え籠城戦を戦い抜いた。

そして決死の水門破壊で相手を水攻めにし、かろうじて命をつないだ。

400年を経た今も、ライデンにはライン川の支流が街中を巡り、川面には緑が映える。人口12万ほどの学園都市だが、赤茶けたレンガ造りの街並みを眺めながら川沿いの石畳を散策すると、気分はすっかり17世紀である。

自転車に乗った学生がさかんに往来する。その一角でちょうど卒業式が行われようとしていた。聞くところによると、卒論が合格するとたとえ数人でも、その都度卒業式をするのだそうだ。

颯爽とした服装の親族、友人が三々五々、目の前を行き来している。

その昔、スペイン軍の猛攻に耐えたライデン市民に、司令官が褒章を示唆したところ、ぜひこの町に大学を造ってほしいといって創立されたエピソードがある。

ライデン大学

かくして1575年、オランダ最古の大学、ライデン大学が生まれた。

このような地で、学生生活を送れる若者に羨望の目を向けながら散策する。

そういえばこの地に学んだ日本人がいたことに思い当った。じつは幕末の動乱期、帝国主義の餌食から免れるため、15人の有能な幕臣があわただしく幕府からオランダ各地に派遣された。

西周(にしあまね)や津田真道はこのライデン大学で自然法、国際公法(万国公法)を学んでいる。

ちなみに「哲学」という日本語を造ったのはこの西周である。150年前のライデンもこのように美しい街であったのだろうか。

川沿いには大学の建物が多く、どこまでが大学構内か判然としない。

シーボルト

そのなかにシーボルトの住んだ住宅があった。現在「シーボルトハウス」として、800余の貴重な資料が展示されている。

館内を巡る間、訪問者がさほど多くなかったのは幸いであった。

シーボルトは僅か5年間の滞在中に、鳴滝塾の弟子たちを通じて植物の標本を始め、衣類、家具、食器、手工芸品など二万点もの品々を蒐集した。

とくに力を入れた植物標本は、一万二千点と桁外れである。動物のうちオオカミ、トキ、サンショウウオなどは複製にされた。

1830年、日本地図の持ち出しで国外追放処分を受けたシーボルトは、オランダのライデンに戻ったあと、日本研究の総括に没頭した。

彼はヨーロッパ学会において「日本学の祖」と評価され、ボン大学教授に招聘されるも、これを固辞して「日本」、「日本植物誌」の執筆に精を出した。

展示された資料からは、幕末日本の風景、庶民の生活が如実に伝わってくる。

シーボルトは長崎の絵師、川原 慶賀に、庶民の生活風俗から動植物にいたるまで、目に入るものはことごとく描写させ、オランダ商館長の江戸参府にも同行させて、道中の風景、庶民の生活を詳細に描かせている。それは一見、写真にも見劣りしないほどの出来ばえである。

驚くべきは、シーボルト事件を引き起こしたにもかかわらず、日本国土の詳細な地図がこのライデンの地に届いていることで、それは千島、樺太、朝鮮、琉球にまで及んでいる。

さらに、大名屋敷の記載された仔細な江戸市中図も展示されており、幕府要人が見れば卒倒しそうなしろものである。

幕府の目を恐れず、これだけ膨大な資料を持ち出したシーボルトの執念はすさまじい。

帝国主義時代、地図は金なりといわれ、相手国の詳細な地図は、戦略上決定的な情報源であった。

今なおシーボルトをオランダの隠密だと評価する向きがあるのも、故なしとはしない。

シーボルトハウスを退出した途端、旅の疲れがどっと出たことであった。

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