神をとるか仏をとるか

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もともと我が国の神は自然崇拝から発したもので、八百万の神々が山川草木至る所、家のなかにもおられるという。

古代人は神のおはしますところを掃き清めて祈りを捧げ、感謝や心の救済を願っていたとおもわれる。

ところが7世紀にいたり、アマテラスを押しいただくヤマト政権がオオクニヌシなどのグループを制圧して祭祀権と統治権を握り、以後天照大神は、国民の総氏神として君臨することとなった。

ただ、太陽の如くやんごとなき存在とはいえ、人々に姿かたちが見えるわけではない。

仏像、来日す

そこへいくと、百済からやって来た仏のほうは、容姿端麗で黄金色に輝き、神々しいばかりである。しかも仏は格別に朝廷を守護してくれるという噂である。

つまるところ我が国にもたらされたのは、仏教の教えというより、美しい仏像そのものであった。

そこでこれを利用し、一挙に実権を掌握しようとしたのが蘇我氏である。事実これを機に、蘇我氏は廃仏派の物部氏を追い落とし、朝廷内での権力を確固たるものとした。

その結果、朝廷が仏教に求めたのは、民衆の救済でなく、彼らの不満を封じ込めるための鎮護国家であった。

このような経過を経て、仏は神より優位に立つことになった。

神仏習合し、神宮寺登場

こうして奈良時代になると、神も人と同じように、苦しみから逃れるため仏教修業を望んでいるといって、全国の神社の境内に寺院が建てられた(神宮寺)。

その結果、神宮寺には仏像が安置され、神社内で仏の読経が流れるという異様な光景が出現した(神仏習合)。

以来、神主は僧侶の下で、雑役に甘んじることとなり、庇を貸した神社が、仏教に母屋を取られた形になった。

いかにも神社の神は無念の思いを募らせたことであろう。

しかしその後、聖武天皇は東大寺大仏の造仏を開始するにあたり、この難工事が完遂できるよう、わざわざ宇佐八幡宮に懇願し(勧請という)、東大寺の守護神として手向山八幡宮を造営した。

以後、神は仏の守護神として、その地位を少しずつ復権していったといえる。

本地垂迹説

ところが平安時代に入って,神は「じつは自分は仏教の仏なのだが、この国では仮に神の姿をとっている」(本地垂迹説)と独白し、神と仏は共存共栄のかたちをとるようになった。

八幡神には菩薩の称号が与えられて八幡大菩薩となり、伊勢神宮の祭神・天照大神は大日如来の化身とされた。

以後、鎌倉より江戸にいたる武家政権においても、神宮寺は「武家の守護神」として存在し続けた。

しかし、江戸時代に入り、わが国を取り巻く世情に変化の兆しが見え始めたのである。

徳川幕府は政権発足以来、伴天連(キリスト教徒)対策に頭を悩ませていた。すでにマカオ、ルソンが、ポルトガル、スペインに占領されたと漏れ伝わっており、もしも彼らが日本に来て外様大名と結託すれば一大脅威である。

幕府は彼らの目的がどうも布教だけではないと疑心暗鬼になっていた。さらに聞けば聞くほど、幕府体制を維持するのに、キリストの存在はまことに具合が悪い。

支配者が将軍家以外にあってはならないのである。

このため、民衆に寺請制度を徹底させ、キリシタンでないことを寺院に証明させた。一人残らず、無理やり寺院の檀家に組み込んだわけで、僧侶の権限は絶大なものとなった。

その結果、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いといわせるほど、僧侶の横暴に泣く民衆は後を絶たなかった。

その後も平安以来の本地垂迹説は手つかずのまま存続し、仏教優位の体制は維持されたかにみえた。

しかし事態が急変したのは、、外国船来航により開国を迫られたのがきっかけである。

ペリーの恫喝に泰平の眠りを覚まされた我が国は、ヒステリックなほどに過敏反応を示した。

尊王攘夷

こうした状況下で、平田篤胤の復古神道がクローズアップされるようになる。

彼は、本来日本人がもっていた霊性は、百済から来た仏教によって歪められたとした。したがって神仏習合は神道が仏教に虐げられたものにほかならず、神道をこの呪縛から解放し、もう一度仏教伝来以前に戻すべきであると主張した。

外国から新たな宗教(キリスト教)を持ち込むなど言語道断であり、穢れた異国人に神国日本の地を踏み荒らされてはならないと、攘夷決行を促した。

一方、水戸光圀に始まる水戸学は朱子学を基本にした尊王思想である。天皇を第一とし、幕府はその僕として、朝廷に礼をつくさねばならぬという姿勢である。したがって神仏を分離して神道を尊び、仏教軽視の旗幟を鮮明とした。

さらに幕末に至り、藩主徳川斉昭らによって外国を排除するという攘夷論が沸騰し、尊王攘夷の大本山と目されるようになった。

こうして幕末志士たちは、復古神道や水戸学の尊王攘夷を精神的支柱とし、一挙に尊王倒幕へと舵を切っていったのである。

廃仏毀釈

さて、力ずくで明治維新を勝ち取ってはみたものの、倒幕の志士たちの目にも、攘夷など空理空論であることが明白となり、以後、政府は開国、文明開化へと突き進むことになった。

このとき政府が処遇に窮したのは、幕末、ともに攘夷を推進してきた国学者たちであった。やむなく彼らを神祇官という大役に任じたのである。

これが、大禍を招くこととなった。

彼らはまず、神道を仏教伝来以前の姿にもどすため、神仏分離令を発して、神の絶対優位を確立した。これによって、神と仏は完全に決別したのである。

神祇官は、仏像を神体にしている神社は神体をとりかえるように通達し、神社から仏教色を一掃した。こうして石清水は男山神社に、金毘羅は金刀比羅宮に、多武峰妙楽寺は談山神社、平家一門を祀る阿弥陀寺は赤間神宮となった。

このため僧侶は神官に衣替えするか、還俗せざるをえなくなった。

一方、国が神仏分離を唱えた途端、長年僧侶に抑圧された民衆や神官たちの怒りが爆発した。

ある意味、国の承認を得たという了解のもと、彼らはつぎつぎに寺や仏像を打ち壊すことで、積年の鬱憤を晴らしたのであった(廃仏毀釈)。

その心情は十分理解できるものではあったが、そのうち暴動は抑えが効かなくなり、集団ヒステリーという嘆かわしい事態に至った。

明治政府とはいっても、その内幕は薩長による「にわか造りの政府」で、人心を掌握できてないこと明白である。大久保や岩倉らは廃仏毀釈の暴動をにがにがしく見つめながら、政権の行方に心を痛めていた。

一刻も早く、国家として体裁を整えるためには、国民が心を一つにできるようなものを早急に創り上げねばならない。無論その中心は天皇となるが、信仰の対象をどうするか。

国家神道の創出

そこで政府首脳は、神社を「宗教とは異なる、国家が祀るべき公的施設である」と、無理なこじつけをおこなった。そして神社神道を宗教から切り離して皇室神道とくっつけ、「国家神道」なるものを創り出した。

以後これを国教とし、教育勅語を広めるとともに、国民に天皇崇拝と神社信仰を義務づけたのである。

そして国家神道の象徴として、国事で倒れた霊を祀るため、陸海軍直轄下に「靖国神社」が創設された。(ただし戦後は、政教分離により国家との関係は断たれた。)

一方内務省の管轄下で、各都道府県ごとに戦死者・殉職者を祀る「護国神社」が創設されるとともに、天長節(天皇誕生日)など国家祝祭日の設置や、伊勢神宮を頂点にした神社制度が整備された。

第二次大戦後、連合国軍総司令部(GHQ)は政教分離が不十分だったとして「神道指令」を発表し、1946年正月には、天皇の神格化を否定する人間宣言が下された。同時に憲法第20条で信教の自由が保障された。

日本人の宗教心

現在の日本人で信仰する宗教をもつひとは、3割程度といわれ、おおざっぱに言って、約半数が神道、残り半数が仏教といわれる。

多くの家で神棚と仏壇は同居しており、寺の檀家であると同時に、神社の氏子であることに悩む家庭は少ない。

近年、神と仏は仲睦まじくなってきたといえる。

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