桂小五郎(木戸孝允)の英知


先般、料理名人のS氏から出石そばをいただいた。

彼自身蕎麦打ち名人であるから、不審な顔をすると、その昔彼が修行に行った先だというから相当なものと判断した。

出石そばの出処は信州である。

徳川中期、松平氏に代わり国替えとなった信州上田の千石氏が持ち込んだといわれる。

但馬の国は兵庫県の北に位置し、鳥取県・京都府にはさまれ日本海を望む。

出石は但馬の国のなかほどに位置する山あいの町で、城崎温泉や夢千代日記で知られる湯村温泉に近い。

幕末史で出石が脚光を浴びるのは、長州の大立者、桂小五郎が新撰組の追跡をかわし、京の芸妓幾松(のちの松子夫人)と潜伏していたことによる。

吉田松陰が安政の大獄で処刑されたあと、桂は江戸において長州反幕派の指導者となった。

文久2年には藩主の側近中の側近(右筆)となり、尊皇攘夷を藩論として京の政界を牛耳り、馬関沖の外国船を砲撃して攘夷運動を実施した。

8月18日の政変で、薩摩・会津の連合軍に中央政界を追われたが、巻き返しを狙って、翌年、尊攘派が一橋慶喜・松平容保暗殺、孝明天皇拉致を企図した。

しかし、これを新撰組に察知され、池田屋事件で壊滅的打撃をうけてしまう。

このとき桂は池田屋に早く着いたため、いったん外出していて奇跡的に難を逃れた。

強運である。

事件後、長州藩では強硬派が実権を握り、7月禁門(蛤御門)の変をおこしたが、薩・会軍に返り討ちにされた。

新撰組の落ち武者狩りは執拗を極めたが、桂は巧妙に厳しい追っ手の目をかいくぐり、但馬の国出石に身を潜めた。

この激動期に領袖の地位にありながら、1年近く潜伏しおおせたのも強運といわざるを得ない。

慶応2年、京の薩摩藩邸で薩長同盟がなった。

長州はこれまで薩摩に煮え湯を飲まされつづけており、苦境に立っていた。

桂はとても自分のほうから頭を下げるわけには行かない。

間に入った龍馬と西郷を前に、薩摩に対する怨念をことごとく吐露し、長州の気持ちが理解できぬというなら同盟はできなくてもよい。

それで長州が亡ぶなら仕方がないといった。

なんとしても話を纏めたいという本心を伏せた、ぎりぎりの交渉であった。

西郷は最後まで黙って桂の苦言を聞き、改めて軍事同盟が成立した。

維新政府における彼の卓見は傑出している。

学校教育こそ最も優先されるべき課題であるとし、機械化工場の設置を進め、憲法制定による立憲政体、三権分立国家像を建言し、長州主導で近代的軍事制度の確立を急いだ。

また版籍奉還、廃藩置県など封建制度の解体に尽力し、士族授産を推し進めた。

長州にこれだけの見識を身につけた人物がいたことは、わが日本にとって幸運であった。

長州藩主毛利敬親や明治天皇の信頼もきわめて厚く、西郷・大久保とともに維新の三傑といわれる所以である。

純粋で律儀な性格のため、繰り返される権力闘争にうんざりし、子飼いの井上馨や伊藤博文との不和など、精神的苦悩が絶えなかった。

西南戦争の半ば、出張中の京都で死の床(脳疾患とも胃ガンともいわれる)に就き、43歳の生涯を閉じた。

桂が倒れて4ヵ月後、西郷が自刃し、それより8ヵ月後に大久保が凶刃に倒れ、維新の三傑は揃って世を去った。

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