廃刀令の皮肉


剣術は戦国期以来、沈下していたが、幕末にいたり一気に興隆し、江戸市中には500の剣術道場ができたという。

ところが明治維新とともに再び剣術は廃れた。なにより廃刀令である。

ちょん髷を切り着物も草履も脱ぎ捨てれば、洋服に革靴を履いて刀をさすわけにはいかない。

皮肉なことに明治10年西南の役で、警視庁抜刀隊や薩摩示現流の兵士が、接近戦では銃をもつよりはるかに活躍したため、剣道は再度興隆をみることとなった。

山岡鉄舟は榊原鍵吉とともに明治を代表する剣士である。

両者とも180cm、100kgを越える堂々たる体躯であり、歴史に残る両者の対戦は、激しい息遣いのみで、一度も竹刀を交えることなく、どちらからともなく竹刀を引いて引き分けたと記録されている。

山岡鉄舟は旗本の5男である。千葉周作門下で修行を積んだ。

若い頃は、荒々しい剣法で“鬼鉄”と恐れられ、酒色に耽る傍若無人ぶりであったが、参禅し心身の鍛錬に没頭するようになり、変身した。

才に恵まれたというより、探求してやまぬ努力によって、剣客にとどまらず、禅師としても、書家としても他に追随を許さぬ域に到達した。

44歳にいたり剣と禅の道で大悟し、当代一の浅利又七郎義明から伊藤一刀斎の夢想剣の極意を伝授された。

浅利は山岡と立ち会ったとたん、ただちに竹刀を引いて、もはや剣の極地に到達していることを告げたといわれる。

こうして鉄舟は明治時代唯一の新流である無刀流を創設した。明治13年のことであった。

はなしを幕末に戻す。

当時、鉄舟は幕府の講武所剣術師範の地位にあったが、鳥羽伏見の戦いの後は、将軍慶喜の身辺警護にあたっていた。その頃の逸話である。

将軍慶喜は大阪から江戸に戻ると直ちに上野寛永寺に蟄居し恭順の意をしめした。しかし官軍の鼻息は荒く、江戸総攻撃は不可避と思われていた。

江戸が火の海になるのをなんとしても阻止せんがため、慶喜と勝海舟は、幕府側で最も胆力のあるものとして山岡鉄舟を選出した。

鉄舟は東海道に繰り出した官軍5万の兵のなかを、死を決して「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎、大総督府へ罷り通る」と叫びながら、駿府へ出向き、司令官西郷隆盛に面会を果たした。

生きた心地はしなかったであろう。西郷自身、山岡のとった捨て身の行動に驚愕したといわれる。

主戦論の西郷に向かい粘り強く和平を説いた山岡は、結局、江戸城無血開城にこぎつけたが、将軍慶喜を官軍に引き渡すという一点において、激しく対立した。

しかし、「自分の主君がこういう立場に置かれた時、あなたなら同意できるか?」という鉄舟に、とうとう西郷が折れ、基本条約が成立した。

このため、このあとおこなわれた西郷・勝のトップ会談は、滞りなく終了した。

山岡は文字どおり江戸攻撃を阻止した立役者であった。勝はいう。

「あの時、西郷を説得して維新鴻業を全からしむることは、山岡ならではできない業だ。」と激賞し、西郷もまた、「命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬ、といったような始末に困る人ですが、しかしあんな始末に困る人でなければ、互いに腹を開けて天下の大事を誓い合うわけにはいきません。本当の無我無私の忠胆なる人とは、山岡さんの如き人でしょう。」といって、褒め称えたという。

彼の才は維新政府からも注目され、茨城県知事、佐賀県知事を歴任したあと、西郷に頼まれ、明治天皇の侍従(家庭教師)を10年間勤めた。

この間、天皇を投げ飛ばして乱行をお諌めしたこともあり、天皇の信頼は比類なきものであったといわれる。

天皇侍従を免官後は、剣術道場を開き後進の指導にあたった。

彼の剣は“慈悲の剣”と呼ばれ、多くの弟子が門前に列を成した。

彼は生涯一度も人を斬ることはなく、草木・動物にも慈愛の目を注いだという。

52歳、胃ガンのため、座禅したまま往生をとげた。

山岡鉄舟ほどの人物が、明治史にさほど名を残さなかったのは、彼が自らの業績を一切語ろうとしなかったことにもよるが、維新政府がこの幕府側の傑物を持て余したからともいわれる。

歴史はつねに勝者の手によって、勝者に都合よく書き換えられるものである。

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