村田蔵六(大村益次郎)の武士道

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適塾は医学塾というより蘭学塾である。

医師緒方洪庵が診療と平行して開設したものである。

その人情味溢れる教育指導は全国に鳴り響き、門弟は延べ3000人を数えたという。

幕末、西洋を知るには蘭語だけがその糸口であり、ペリーの恫喝に驚いた若者の多くは攘夷を唱えたが、逆に好奇心と危機感をもってオランダ語の習得に励んだ人たちがいた。

適塾の塾生はその代表である。

100人を越える塾生のうち住み込みは30名である。

彼らは木造2階建ての宿舎30畳の間に寝泊りし、一人たたみ一畳のスペースに文机を置いて蘭語の学習に没頭した。

着の身着のまま、疲れればその場に寝て、目覚めればひたすら机に向かうというすさまじいものであった。

そのなかで最も成績のすぐれたものが塾頭となる。

幕末諸藩は自らの国防に努めるため、オランダ語の翻訳できるものを集め、ヨーロッパ軍事技術の導入に躍起となっていた。

適塾の塾頭ともなれば諸藩から引く手あまたであり、高給で迎えられるのが常であった。

村田蔵六はまぎれもなき塾頭である。

その彼が、山口の田舎で町医者の父のあとを継ぐため、突如帰郷するという。

立身出世の最先端にいながら、周囲が訝しがるなか適塾を去った。

蘭学をすてるのは本意ではなかろう。

しかし、父の要請を断ることは出来ない。

父のあとを継がねばならぬという忠孝がすべてに優先している。

開業医が性に合っていたわけではない。

むしろ、木で鼻をくくった診療態度に患者から煙たがられ、町医者としてはきわめて不評であった。

しかし、後悔して適塾に戻ろうとしたふうもない。

そこで彼の地味な人生は終わるはずであった。

彼の運命を一転させたのは幕末の四賢侯、伊達宗城(むねなり)である。

蘭語の翻訳者として彼を宇和島へ招聘したのである。

決して高い身分ではない。

しかし、彼はこれを請けた。

伊達宗城に指名された喜びもあろう。

再び蘭学に触れる喜びもあったであろう。

宇和島に移り住んだ彼はひたすら兵書翻訳に没頭する。

翻訳者は必ずしも書物の内容を把握できなくてもよい。

ところが、彼は兵書を読むだけで軍隊の展開が目に浮かび、軍略が沸いてくるという才に気付く。

蔵六は翻訳をしながら西洋軍事技術を学ぶと同時に、技術に付帯している市民平等思想をも吸収し、幕末人とはかけ離れた進歩的頭脳を持つにいたる。

すなわち、彼の頭には武士に頼らない軍隊の創設が芽生えていた。

蘭学者から軍略家への見事な転身である。

その後、宗城の参勤交代について上京した彼は、幕府の注目するところとなり、洋式兵学の教授に採りあげられる。

長州の百姓が幕府の教授になるという江戸身分社会ではありえない事態である。

これをもってしても、士農工商の崩壊がすでに始まっていることが推測される。

この時期、長州は大変である。

長井雅楽の航海遠略策(公武合体策)が中止となり、藩論は尊皇攘夷に統一された。

このため、英国公使館焼打ちや外国船砲撃に続き禁門の変をおこし、幕府と欧米を同時に敵に回すという暴挙に打って出て、満身創痍である。

これに先立って、彼は江戸にいた桂小五郎に偶然、その異能を発見され、長州における軍事指導を依頼されたのである。

ただし、藩士でなくお雇い身分であり、直参待遇から一挙に下級武士への降格である。

しかし、蔵六は黙ってこれを請けたのである。

藩から自分が必要だといわれた以上、その要請を断ることは出来ない。

苦境に立つ藩のため一身をなげうつという忠義がすべてに優先している。

この点において、同じ適塾の塾頭をつとめた福沢諭吉とは意見が相容れない。

諭吉にとって、門閥制度は親のかたきというほどに藩とは袂を分かち合っている。

こうして、長州に戻った彼は、軍事の才をいかんなく発揮することとなる。

長州には、武士団を否定し百姓町人からなる奇兵隊を擁する高杉がいた。

彼の死後、蔵六はあとを引き継ぎ、長州百姓軍を率いて幕府武士団を粉砕するのである。

彼の主唱した国民皆兵は、士農工商を破棄し四民平等の上に立つ進歩的理念であった。

彼は「性能のよい銃を持たせた歩兵集団を巧妙に運動させ、敵を兵器と戦術で圧倒する。」といい、忠実に命令を聞く歩兵さえおれば勝てると断言する。

事実そのとおりになった。

鳥羽伏見の戦いの後、彼は上野彰義隊の討伐から戊辰戦争まで陸軍最高司令官として活躍し、維新後は日本陸軍の祖として歴史に名を刻んだのである。

しかし、武士階級を潰し国民皆兵を進める彼は、旧士族の恨みを一身に浴びた。

それにもかかわらず身辺警護は無防備に近く、桂の危惧どおり凶刃に倒れることとなった。

その生き様を通観するに、仁義忠孝に篤く、地位に恋々とするところがない。

幕末武士道の体現者の一人といっていいであろう。

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