藤原泰衡の苦悩


100年続いた奥州藤原氏最後の当主・泰衡を評価したい。

1189年、頼朝の攻撃を受けた彼は、平泉に陣をしかず、北へ逃走した。

通常、強大な相手に攻められた場合は、堀や土塁を築き、館にこもって、焦土作戦をとるのが普通だが、彼はそれをしなかった。

彼のおかげで平泉は戦火をまぬがれたのである。

当時、平泉は平安京(人口約20~30万)につぐ日本第2の都市(人口約15万)であり、戦乱に疲弊した平安京をよそに発展を続けていた。

父祖4代にわたり、奥州全体を仏国土にしたいとの願いから建立された中尊寺金堂や毛越寺を焼き払うなどという暴挙は、とてもできるものではなかったのであろう。

平泉に入った頼朝は、おもわずその威容に打たれ、言葉を失ったといわれる。

泰衡は4代目である。

父方の祖父、基衡は藤原氏2代目とはいえ、いつ朝廷や源平が触手を伸ばしてくるか気が気でなかった。

そのため朝廷への莫大な付け届けを怠らず、朝廷ばかりでなく源氏・平氏も手を出せぬ政治的空白地帯を現出し、奥州独立国の保全に精出した。

とくに、朝廷から派遣される国司は丁重にもてなした。

そのかいあって、陸奥の守として赴任してきた藤原基成とねんごろになり、彼の娘と自分の息子秀衡の縁組をまとめることに成功した。

田舎の一豪族の血に、都の血が入ったといえる。

ここに生まれたのが、泰衡である。

もはや田舎の4代目ではない。

母も祖父も都人であり、貴人である。

貴人は得てして脆弱である。

ほとんど公家の子として真綿で包むように育てられた泰衡に、野性的剛健さは乏しかった。

そこへ突然現れたのが、同年輩の少年・義経であった。

源氏の嫡流とはいえ、側室の子であって、鞍馬山に預けられたものの勤行に励んだ形跡はなく、かなり粗野に育ったらしい。

特に、母・常盤のもとへ訪れる清盛が父の仇であると知ってからは、非行に拍車がかかったものと推測される。

気性激しい義経に対し、おどおどして受身一方の泰衡が目に浮かぶ。

ことさらに、義経2度目の来訪は、彼にとって計り知れぬ困惑であった。

今や、義経は平家滅亡の立役者にして、頼朝から指名手配をうける恐るべき存在である。

父から義経を守れと遺言されたものの、頼朝からは義経を召還せよと矢の催促である。

鎌倉幕府を開いた頼朝の勢いは増すばかりで、朝廷の威光は衰える一方である。

時代は大きく転換している。

もはや、鎌倉に盾突くのは限界と判断した泰衡は突如、衣川の館を急襲し、義経の首を鎌倉へ送った。

が、その判断は甘かった。

3ヶ月の後、有無を言わせず、頼朝の大軍が奥州に攻め込んできたのである。

頼朝にとって奥州平定は朝廷屈従と並んで、当初からの計画であったといわれ、義経をダシにつかったにすぎない。

頼朝は不世出の軍略家である。

公家の世を武士の世に転換するほどの胆力は稀有のものといってよい。

その戦力分析は確かで戦略に富み、一方泰衡は奥州の軍事力を把握しきれず、戦略を見誤った。

北へ逃げた泰衡は、すがる思いで頼朝へ助命嘆願したが徒労に終わり、部下の裏切りにより無念の死を迎えた。

さらし首にされ、8寸クギを打ち付けられた彼の頭蓋骨は、痛々しさとともに頼朝の尋常でない執念を髣髴とさせる。

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