甲子夜話(かっしやわ)


文政4年(1821年)11月17日、甲子(きのえね)の夜、平戸藩の元藩主、松浦(まつら)静山は親友、林大学頭(だいがくのかみ)の勧めにより、心にとどめた日常の出来事を日々書き留めることとした。

62歳のことである。

以後20年間毎日欠かさず書き続けた結果、278巻の大著となった。

世に言う”甲子夜話”である。

静山は12歳のとき父が死亡、祖父母の薫陶をうけ15歳で将軍家治に壱岐の守を命ぜられ、16歳で平戸・松浦藩6万石の藩主となった。

翻ること200年前、平戸はポルトガル、オランダ、イギリスなど西欧諸国との交易で栄え、西の都とまでいわれる隆盛を誇っていた。

ここを本拠に松浦隆信は戦国大名として力をつけ、機を見るに敏で、秀吉、家康と従うべき相手を誤らず、近世大名として生き残った。

しかし寛永18年(1641年)幕府の鎖国政策のためオランダ商館が長崎の出島へ移転したため、平戸はただの小島に戻った。

したがってその後の歴代藩主は財源確保に頭を悩ませ、なかでも地の利を得た捕鯨に精力を傾けた。

その結果、130年間に捕獲した鯨は2万頭に達し、藩の財政の3分の1を支えるまでになった。

16歳の藩主静山は代々伝わる文武両道の精神を受け継ぎ、佐藤一斉や朝川善庵などの儒者を招いて教育に尽力し、藩校を建てみずから教壇に立つまでになった。

彼の学問好きは尋常でなく、平戸と江戸藩邸の文庫に収められた書籍は3万冊を越えたという。

青年時代の静山は才気と野心にあふれ、6万石の外様大名ながら幕府内での出世を熱望し、田沼意次に献金や日光参拝など様々の工作をおこなった。

しかし結局、幕府への働きかけは徒労に終わり、無念のうちに引退を決意。

わずか47歳で東京墨田区の藩の別邸に隠居し、第2の人生を選んだ。

隠居後の彼は邸内に相撲取りや僧侶、職人、芸人を住まわせ、文人墨客、大名にいたるまで交遊の広さには際限がなかった。

一見、風流にのみ生きたようにみえるが、53歳で心形刀流剣法家伝を、68歳で日置流射学免許を許されるほど武道にも精進した。

つまり昼間は武芸に励み、夜は執筆に取り組み、その著作は数十種に及んだ。

とても隠居の身とは思えぬ意気込みである。

なかでも特筆すべきは、先述した随筆風日記“甲子夜話”である。

幅広い交遊関係によりその内容は当時の社会風俗、政治経済、自然現象、噂話が如実に語られ、資料として一級品であるばかりでなく、時代小説の作家にとっては今も題材の宝庫として珍重されているという。

たとえばイカの墨汁で証文を書く話しというのがある。

イカ墨で書いた文字は1年もたてば消えてしまうので、インチキなやり方を「イカサマ」と呼ぶようになったという。

また、信長の“鳴かぬなら殺してしまえホトトギス”、秀吉の“鳴かずともなかして見せうホトトギス”、家康の“鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス”は戦国武将三人の個性を言い表したものとしてつとに有名である。

甲子夜話によればこの句は江戸後期に詠まれたもので、これには続きがあって“鳴かぬなら鳥屋へやれよホトトギス”という句は十一代将軍徳川家斉を詠んだものという。

さらに興味深い話しとして、大阪落城により自殺したとされる秀頼が実は薩摩に落ち延びて潜伏し、90歳まで生きながらえ、その子孫は農民になったという噂話を書き留めている。

静山は寛政の改革者・松平定信をはじめ3人の老中と姻戚関係を結ぶしたたかさも有していた。

極め付きは11女 愛子を 大納言・中山忠能(ただやす)へ嫁がせたことで、その長女(一位局)は孝明天皇との間に男子をもうけた。

のちの明治天皇である。

かくして彼は明治天皇の曽祖父という名誉を手中にしたのである。

“勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし”の名言を残し、当時としては稀な82歳の天寿を全うした。

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