時代を先駆けした田沼意次

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儒教は農業を基盤とした世界であって、商業では決してない。

まして士大夫たる武士が商売に携わるなど、想像だにできぬことであった。

そういう観念で頭ががんじがらめになっている江戸城に、突然ふって沸いたように、商業で幕府の財政を立て直そうとする人物が現れたのである。

幕客からは胡散臭い存在と思われたであろうが、将軍家重の絶大な信任が彼を自由に活躍させることとなった。

田沼意次はのちに、100年先の経済感覚を持って生まれたといわれるほどに、非凡な人物であった。

当時幕府の台所は決して楽でない。

吉宗の時代までに新田開発はほぼ終ってしまい、年貢を増やそうにも、もはや限界に近かった。

この世の富はすでに農村になく、町の商人の手に握られていた。

彼はこの現実をしっかり見据え、潤沢な資金をもつ商人を利用して幕府の財政を立て直そうと考えた。

このためまず有力商人の頭を撫でて商品を独占販売してもよいと喜ばせ、そのかわり運上金・冥加金という纏まった金を幕府に納めさせた。

また、殖産興業を目指して有力商人に出資させ、印旛沼・手形沼を開拓し、利根川と連結して運河を造り、東北方面との流通の便を図ろうとした。

さらに鎖国政策には目をつむって規制の緩和に努め、長崎での貿易を活性化して幕府みずから利益を上げることに努めた。

さらに金銀が大量に海外流出する事態に危機感を覚え、貿易での支払を銅や俵物に切り替えようとした。

このため沿岸部の住民に干しアワビ・いりこ・ふかのひれなどの俵物の育成を勧め、さかんに中国へ輸出した。

またマンネリ化した幕府のどんぶり勘定を見直し、主要機関へ予算を割り振りして、その範囲内で賄わせることにした。

もっとも大幅に削減したのは浪費の巣窟であった大奥の予算である。

大奥の奢侈の代表は砂糖と生糸であり、ことごとく輸入に頼っていたが、生糸国産化に続き、砂糖の国産化(甘藷栽培)にも手を尽くした。

彼は吉宗亡き後、暗君といわれた家重、家治2代の将軍に仕え、幕府の財政再建に取り組んだ。

その結果、1770年には、備蓄172万両という、将軍綱吉以来の記録を達成するにいたった。

当時、江戸の金・大坂の銀と東西で流通する貨幣が別々という奇妙な状態になっていた。

彼はこの不便を解消するため通貨の統一を図り、さらに財政支出補填のため新貨の鋳造を行った。

意次のアイディアはまだまだ続く。

当時ロシア船が頻繁に日本の海に出没し始めていた。

そこで彼は蝦夷地を幕府の直轄とすることを計画。

この地を開発して俵物を増産させ、この期にロシアと国交を結び貿易することによって、ロシアの脅威から日本を守ろうとしたのである。

当時、海外に出かけずしてこれだけの世界観を構築していたことに深い敬意を表したい。

こうして町人・役人の生活が金銭中心になると、世間には賄賂が横行しがちとなる。

まさにそのとおりになった。

“勘定奉行になるには2,000両、目付になるには1,000両の袖の下”と、賄賂の相場まで言及したため、賄賂政治の代名詞のようにいわれる意次であるが、近年、その多くを幕府財源に振り向け自分の袖の下にはほとんど入れてなかったことが明らかになり、面目を一新しつつある。

商業主義は賄賂の温床になる欠点があるが、一方で市井は活性化する。

彼は明らかに蘭学の優れたる点を評価し、進んでこれをを奨励し、身分よりも能力を尊重。

足軽身分の平賀源内らを登用した。

こうして自由な気風のなか、市井では大いに庶民文化が花開いた。

一方、思いもかけない事態が出現した。

若い農民が労多くして益少ない農業に見切りをつけ、職を求めて大挙江戸や大阪を目指したのである。

商業主義は農村を荒廃させることになった。

さすがの意次もここまでは読みきれなかったようだ。

こうしたなか、天明二年(1782年)に全国的な冷害が始まり、追い討ちをかけるように翌年、浅間山噴火が勃発。

関東以北に広範な不作が発生し米の値段は急騰した。

これをみた諸藩は、なんと手持ちの米俵をただちに大阪の米市場に送って利益をあげ、藩の借金返済に充てたのである。

さらに商人達はこの凶作をチャンスとばかりに米を買い占め、売り惜しんだ。

こうして東北諸藩の民は飢餓状態におかれることとなった。

史上名高い天明の大飢饉が人災といわれる所以である。

当然、米価は高騰し、百姓一揆、うちこわしが頻発、田沼政治への批判が噴出した。

意次も次々救済の手をうったが、徒労に終わった。

さらには茫然自失となった意次にとって、後ろ盾であった将軍家治が死去。

満を持したかのように反主流派が台頭し、意次は志なかばで失脚するはめになった。

これだけの才覚をもってしても、一度動き始めた流れはもとに戻せなかった。

苦渋に満ちた意次の心中がじわりと伝わってくる。

無論、それで彼の評価が落ちるというものではない。

それどころか、経済感覚ばかりでなく政治感覚の鋭さにも、改めて舌を巻く。

すなわち彼によれば、将軍家は天下を統治しているのであるから、その統治費用は将軍家のみが負担する必要はない。

天下万民から税金を取り立てるのが当然である。

諸藩は自分の領地を統治する税金とは別に日本を統治している幕府に税金を差し出すのが当たり前であるとした。

さらに諸藩など無用の代物であり、天下には将軍家のみがあれば事足りるといい、幕藩体制を否定し中央集権構想を打ち出している。

明治維新の郡県制を示唆するもので、彼の案はのちに廃藩置県により実現された。

江戸中期に棲む人間の思考をはるかに超えていることが分かっていただけよう。

実におそるべき才能である。

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