島津久光のジレンマ


万延元(1860)年桜田門外の変で井伊直弼という強烈な個性を失って以来、幕府は政治の舵取りを失い迷走状態となった。

さらには外国の威圧に腰砕けとなって、さかんに朝廷の顔色を窺うようになった。

公武合体はこの弱腰からでた理屈で、もはや幕府が自立できなくなってきたことを諸藩に示すことになった。

以後、政治の舞台は京に移っていくことになる。

そのころ颯爽と現われたのが、長州の藩論となった長井雅楽の航海遠略策である。

朝廷が主張する外国との条約破棄はいまさら出来ぬことであり、今こそ公武合体して外国との貿易を推し進めることにより、国力を高揚することが肝要であると主張した。

この理論は朝廷と幕府をともに配慮したもので好意をもって迎えられた。

関が原以来、防長2州に押し込められていた長州が、幕末昏迷期に到り、満を持して歴史の表舞台に登場してきたのである。

これをみて不快感を募らせていたのが薩摩の島津久光である。

彼は長州藩に劣らぬ強大な兵力をバックに、朝廷より勅許を受け、みずから公武合体を実現させるために幕府に出向き幕政改革を迫ろうとした。

文久2(1862)年、軍勢を引き連れ京に入った久光は、朝廷の意を得、勅使・大原重徳を護衛して江戸に入り、将軍・家茂に謁見。

幕政改革の朝旨を伝えるのに成功した。

幕政のご意見番として全国にその名を知らしめた久光の一行は意気揚々と京へ引き上げたのである。

ところが入京してみると、朝廷の覚えとは裏腹に、京の志士や下級公家からは倒幕の先導者と期待されていただけに失望が大きく、人気は失墜していた。

それにかわり、尊王攘夷が京の街の人気を席巻していたのである。

長井雅楽の航海遠略策は幕府主導の公武合体であったため、急速に人気を失い、かわって長州藩の主導権を握った急進派が、藩是を過激な尊王攘夷に急転回させていた。

こうして久光の唱える公武合体論はすでに色褪せてしまい、久光は臍をかむ思いで京を後にしたのであった。

その後、京の朝廷は尊王攘夷を唱える長州急進派によって操られ、京の街にはテロの嵐が吹き荒れた。

安政の大獄に加担した者や開国論者をはじめ攘夷に反論する者は、次々に暗殺の標的とされた。

文久2~3年は幕末のもっとも凄惨な暗黒時代といえよう。

薩摩に戻った久光は京の惨状に苛立ちを募らせていた。

国政の主導権を握ったかにみえたのも束の間、長州藩にしてやられたという忸怩たる思いである。

この時期、京都守護職を拝命した会津藩も悶々たる日を送っていた。

天誅と称して京の街を我が物顔に闊歩し、テロを続ける長州や土佐の過激派。

その背後には、彼らを擁護する急進派公家がいるため、会津藩主とて手をだすことができない。

容保は面目が立たず悶々たる日々を送っていたのであった。

この苛立ちが前代未聞の提携を実現させることとなった。

真っ向から対立している勤王派の薩摩と佐幕派の会津が手を結んで、長州追い落としにかかろうというのである。

久光はジレンマに悩みながらも、会津と手を結ぶ道を選択した。

文久3(1863)年8月18日未明、薩摩・会津の兵が突如として御所の門を固め、勅許を得て1日にして長州勢の洛外退去を実現させたのである(8月18日の政変)。

久光は当初、無法者の長州急進派を追い出し、京をテロの嵐から救った英雄として街の人々から感謝されると期待していた。

ところが、意外にも思惑は外れてしまった。

政敵と同盟した薩摩藩の信用はかえって失われ、信頼できない相手という印象を京の人々ばかりか全国諸藩に与える結果になってしまった。

八方ふさがりの状態に久光と薩摩藩首脳部は、頭をかかえてしまった。

そのうち、この雪隠詰めを打開できるのは西郷吉之助しかいないという声が藩内に広がり始めたのである。

久光はそれをにがにがしく聞きながら聞かぬふりをしていた。

西郷の才は認めるものの、自分の命令に背き、面と向かってあなたは天下をうかがう器ではないと言い切る男に激しい憎悪を燃やしていたからである。

しかしなんとかして自分が国政のリーダーシップをとりたい。

西郷を復帰させるか否か、久光はまたもやジレンマに悩むことになる。

結局、一度は沖永良部島まで追放した西郷を召還することにしぶしぶ同意したのである。

斉彬の治世、、京でその名を知られた西郷は勇躍、薩摩藩の軍事司令官として入京し、獅子奮迅の活躍をすることになる。

西郷は大久保、岩倉と図って王政復古の大号令にこぎつけ、明治維新の立役者となった。

久光の頭の中には島津幕府の構想も描いてあったが、これは叶わず、それどころか「これだけは絶対やるなよ」と厳命した廃藩置県も西郷の一蹴で決行される結果となった。

久光は国学に造詣の深いインテリであったが、大久保・西郷の心中は見抜けず、結局彼らにしてやられたと、維新後になって気付くのである。

彼は一時維新政府に出仕(内閣顧問、左大臣)するも、閑職のため失意のうちに鹿児島へ戻って隠居し、島津家の史書編纂・蒐集に専念、20年、70歳で没した。

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