水戸学のジレンマ


水戸家は徳川御三家の一つで、唯一江戸に常勤し将軍を補佐する副将軍である。

その水戸家が幕末にいたり、将軍家にとって獅子身中の虫になってしまった。

すなわち水戸学なるものがあろうことか、倒幕派の思想的支柱になったのである。

その発端は水戸黄門で名高い、家康の孫、水戸光圀にある。

光圀は側室の子で次男でもあり、かつて父頼房は光圀の懐妊を知った時、母親に流産を命じたほどであるから、水戸家相続の目はないものと思われていた。

ところが、5歳の時、頼房の一存で兄を差し置いて跡継ぎに決まったのである。

周りから意外なという視線を感じつつ育った光圀は、居心地の悪さに落ち着かず、劣等感に悩む青少年期を送った。

そこから正統な跡継ぎとは何か、ひいては我が国の正統な支配者は誰かというテーマが少年の頭を占めることとなった。

朱子学を学び、中国の歴史書『史記』に精通した彼は、偶然明から亡命してきた朱子学の大家・朱舜水に会うことになる。

そして明が女真人によって征服され、今の中国には中華なるものが失われてしまったことを知らされた彼は、もはや我が国のみが中華思想にかなう国家であり、日本の真の支配者は天皇であると考えるようになった。

彼は朱子学を正当化する権威として天皇を崇拝し、「自分の主君は天皇であり、徳川の将軍は一族の宗家である」と明言するにいたった。

将軍家が聞き及べば由々しきことと咎められそうであるが、実は将来、徳川家が朝廷と対立した場合、血筋を絶やさないため水戸徳川家は天皇側につくように定められていたというはなしもある。

光圀は水戸学の草分けとしてつとに有名であるが、その尊王思想の真髄は、徳川家は天皇から将軍職を委託されているのであって、将軍家に恭順の意を表することはすなわち天皇を尊ぶことに結び付くというものであった。

無論そこに倒幕の意志はない。

考えてみれば、我が日本にはかつて正史というべき歴史書がない。

ならば我が水戸藩独自で正統的な歴史書を作ろうではないかと思い立ったのである。

光圀の、大日本史編纂にたいする情熱は尋常でなく、水戸藩歳入の5分の1をこの事業に注ぎ込む入れ込みようであった。

ところが大日本史と大上段に構えて神武天皇から書き始めたものの南北朝まで来て筆が止まってしまった。

なにしろ南北朝時代には天皇が二人いるのである。

どちらが正統な支配者かということになると結論は容易でない。

とりあえず北朝の天皇が後醍醐天皇の臣下であったことから南朝が正統ということにした。

ところが南北朝が合体した後は、北朝から天皇がでるようになったため、北朝を叛臣とするわけにいかなくなった。

ましてや今の天皇家も北朝なのである。

茫然自失の態が目に浮かぶ。

また承久の乱で後鳥羽上皇を配流にした源頼朝や後醍醐天皇を配流にした足利尊氏は当然逆賊としなければならなくなるが、では徳川将軍家はどうであろうか。

天皇の支配権を奪ったのであるから、家康公もまた叛臣となるではないか。

結局、日本の歴史を外来の朱子学で整理しようとすること自体、無理があったといえよう。

編纂者はこの矛盾に悩んで筆が進まず、本紀、列伝だけでも出来上がるのに50年を要した。

全体が出来上がったのは実に明治に入ってからであった。

それほど多大な労力をかけて作り上げた作品であったが、如上の理由で後世、世を動かすほどの威力は発揮しえなかった。

幕末に至り水戸藩では、欧米諸国の開国要求にいかに対応するか論議が沸騰し、光圀の尊王思想が200年間醸成された結果、会沢正志斎と藤田東湖により、熱烈な尊王攘夷論が完成した。

また大日本史編纂の苦労の結果、「君 君たらずとも 臣 臣たれ」という天皇の臣下としての心意気が鼓舞された。

この水戸学は幕末、憂国の志士の圧倒的支持を得ることになる。

やがて米国の恫喝に屈した幕府が開国に踏み切り、統治能力のなさを全国に暴露した結果、水戸学に足場を置く尊王攘夷論が各地で沸き起こり、尊王倒幕へ向かって大きく舵を切っていったのである。

ただ水戸藩士による攘夷は西洋列強に対し、無条件に拒絶するという情熱的なものであったのに対し、吉田松蔭や橋本左内の攘夷は、国際情勢を見極め、国民が一丸となって西洋の不法侵略に対抗しようとする冷徹な意志表示であった。

こうして水戸学は幕末の尊攘志士たちの琴線を揺り動かし、西郷隆盛や吉田松陰らを通して、明治政府に受け継がれていったのである。

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