“そうせい侯” 毛利敬親(たかちか)

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米国との通商条約を朝廷の許可を得ずに結ぶとは何事かというのが水戸・尾張・越前藩主ら一橋派の抗議である。

安政5年4月、大老となった井伊直弼は、話しの内容はともかく彼らが許しも得ずに登城したのは不敬の至りであるとして、強引にも彼ら全員を隠居、謹慎に処した。

そこへ8月、密勅が将軍家でなく隠居させられた水戸の斉昭のところへ届いたというから不穏な事態となった。

戊午(ぼご)の密勅という。

井伊を糾弾する内容ではあったが偽勅の疑いが濃厚とされ、しかも中身が井伊に筒抜けであった。

井伊がすぐさま手回しをしたため、朝廷の井伊おろしは灰燼に帰した。

井伊は将軍家の決定を軽んじる風潮にくさびを打つ決意で、反対派の粛清に乗り出した(安政の大獄)

100名に余る勤王の志士たちが次々に捕らえられ、処刑された。

井伊の恐怖政治はいったん成功したが、揺り戻しには対処できなかった。

安政7年、水戸浪士による襲撃で井伊は惨殺され、宿敵斉昭もまた半年後に病没した。

残された将軍家茂は弱冠20歳。

歯切れのいい幕客が去り、幕府は混迷の度を深めることとなった。

この時期、諸藩は中央を見ている。

機会あれば中央政界に打って出ようという存念である。

長州藩もそのひとりである。

文久元年3月、藩主は政策通の長井雅楽に政見を求めた結果、公武一体となって開国を目指すという航海遠略策を大いに気に入り、これを藩論と決した。

そこで長井が朝廷、幕府に出向いて長州の藩論を説くこととなった。

ちなみに毛利敬親は左右いずれの意見にも「そうせい」と頷くところから“そうせい侯“と陰口をたたかれた人物である。

長井は朝廷に出向き、幕府との離間は攘夷・開国の確執にあるだけであり、今はすでに破約・攘夷は不可能であること、外国船が来れば京都守護が覚束なくなるため幕府に命じて艦船をつくらせ、開国して遠く海外への進出をめざすべきであると説き、賛同を得た。

次いで幕府に出向き、同上の意見を具申し、朝廷と和解して公武合体を望まれるならば、わが長州が間に入って仲介の労を取りましょうと申し述べ、すがるような目の幕閣から了承を得た。

文久2年3月、長井雅楽は意気揚揚と京へ戻ったが、どうも情勢はかつてのようにない。

皮肉にも同郷人である松下村塾の久坂玄瑞・桂小五郎ら尊攘派の朝廷工作により、航海遠略策は幕府に甘く朝廷を誹謗するものであると入説され、朝廷も一転、許しがたき説として非難の矛先を長井に向けていたのである。

これはもとはといえば安政の大獄で吉田松陰の江戸護送にあたり、長井が攘夷派の松陰を冷遇したことへの怨念に端を発している。

しかも江戸では、坂下門外の変で公武合体派の安藤らが失脚し、長井は窮した。

確かに航海遠略策は正論である。

苦し紛れに小声で開国と呟く幕府とは異なり、積極的に開国をめざす気迫のこもった政見である。

しかしこれを尊王攘夷派の側からみれば許しがたき説となる。

事実、文久2年以降、長州藩は尊攘派が藩の実権を握ったため、藩主もこれに同調。

長井は一転“藩の奸臣”の汚名を着せられてしまった。

そして翌文久3年、彼は藩主敬親より不条理極まりなき切腹を命じられ、納得できぬまま自刃して果てた。

以後、藩主は保守派と改革派の間を時計の振り子のごとく右往左往する。

当時長州の尊攘派は京において勤王の志士と呼ばれ朝廷の信任を受けていた。

同3年、長州尊攘派は幕府が攘夷期限を無視したのに抗議するため、英国公使館を焼き討ちし、関門海峡において外国船砲撃を行った。

この暴走には朝廷も驚き慌て、その反動が8月18日、薩摩・会津藩のクーデターを呼び起こし、長州尊攘派はやむなく都落ちする羽目となった。

こうして長州はいったん歴史の表舞台から消えかかるのである。

しかし一滴の血も流したわけではない。

それだけにはけ口のない怒りは鬱積したまま煮えたぎり、一触即発の状態にあった。

そういう状況下に池田屋事件が勃発する。

翌年(元治元年)6月、池田屋に参集した長州を含む諸藩の尊攘派が新選組に襲撃され惨殺されたのである。

長州尊攘派の怒りは沸点に達し、もはや実力行使あるのみと京へ駆け込み禁門の変をおこすのであるが、薩摩・会津の返り討ちに会い、敬親は官位を剥奪されたうえ朝敵の汚名を着せられることとなった。

この年、身から出たさびとはいいながら長州は四面楚歌である。

海外からは英米蘭仏の4カ国連合艦隊に報復攻撃され、国内では幕府側の第一次長州征伐軍に迫られるのである。

風見鶏・敬親とて藩主の座に居ながら、心痛極まりなかったに違いない。

結局家老3名の首を差し出して恭順の意を示して謹慎し、以後政権は保守派が握ることになる。

その後、藩内尊攘派は12月になって高杉晋作が奇兵隊を組織し巻き返しに転じた。

そして翌年(慶応1年)3月には保守派の椋梨藤太(むくなし とうた)らを排斥して藩の実権を取り返し、西洋式兵器の整備・拡張に邁進することとなった。

さらに慶応2年1月、坂本龍馬・中岡慎太郎を仲介に薩長同盟が結ばれたことにより、天下の趨勢は薩長を中心に動き始めるのである。

その証拠に6月の第二次長州征伐では薩摩が後ろ盾になり高杉晋作、大村益次郎らの活躍で幕府軍は惨敗。

幕府権威は大きく失墜した。

もはや倒幕への流れは止めようがないところまで来ていたといえよう。

翌年11月、長州藩は薩摩藩らと共に官軍を組織して上京。

世に言う王政復古のクーデターを成功裏に導いた。

明治維新を迎えた敬親は上洛して明治天皇に拝謁し、左近衛権中将に任ぜられた。

ついに激動の幕末を乗り切ったのである。

明治2年、彼は薩摩・土佐・肥前藩と連名で版籍奉還を奉請した後、病を得たため家督を譲って隠居。

明治4年、53歳の生涯を閉じた。

維新後のはなしである。

旧大名のひとりが、敬親に幕末当時の心境を尋ねたところ、ああしなければ部下に殺されていたでしょうと語ったという。

彼を評して、支配者の風上にも置けぬとの意見もあるが、藩論が左右どちらに揺れても藩主がそれを支持するものだから、藩そのものは壊れずに済んだという見方もある。

しかも時代は泰平の260年を経た世である。

将軍家を始め諸藩においても、「君臨すれど統治せず」というのは、当時支配者として自然な姿ではなかったかとおもわれる。

むしろ彼の美点は、家柄にこだわらず才ある家臣を登用し、信頼して仕事を任せたことであろう。

特に藩の逸材吉田松陰には格別の厚遇をしており、脱藩、国禁を冒してもなおかつ彼を幕府の手から逃れさせるのに腐心している。

そういう敬親の姿勢が松下村塾出身者をはじめ、多くの人材を明治政府に送り出す背景になった。

しかも彼自身は権力への執着を捨て去ったかのように恬然としている。

薩摩の島津久光、土佐の山内容堂とくらべると実に見事なほどである。

それにしても長州には、かつて関ヶ原にて戦わずして中国12州を没収され、防長2州に追いやられた徳川氏への怨念がある。

260年間成しえなかった復讐をついに成し遂げたのが、実に“そうせい侯”であったという。

歴史の皮肉というべきであろう。

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