勝海舟の見識


勝が西郷隆盛と初めて会ったのは元治元年(1864年)9月、大阪である。

西郷は第1次長州征伐で幕府の消極的な戦闘準備を不満とし、軍艦奉行である勝の意見を求めに来た。

このとき勝は、今は自分の藩の利害などを考え内部抗争しているときではない。

イギリス、フランスが虎視眈々と我が国を属国にしようと狙っている。

それにもかかわらず幕府は私利私欲から抜け出せず、すでに政権を担う能力は失っている。

しかしここにおいて雄藩の手で国内を統一し挙国一致で外国勢力に立ち向かえば、日本の恥にならぬよう外国と交渉ができると説いて、西郷を驚かせた。

また神戸港開港の延期に対する列強の反発を心配する西郷に、天皇の不安を取り除くために今しばらく待ってくれとひたすら頼むことだ。

そして諸藩の大名を集めて意見を陛下に奏聞し、国論を決すればよいと答えた。

西郷は彼の見識の高さに驚愕し、盟友大久保利通に宛てた手紙に、「実に驚き入り候人物にて、ひどく惚れ申し候」としたためている。

結局この会見は、西郷が倒幕に向かうきっかけとなった。

勝の見識は日本の沿岸に出没する外国船にどう対処するかというところから出発している。

蘭学と兵法学を修めた彼は、老中阿部がペリー来航に対応できず、幕臣に広く意見を求めたのに応じ、海防意見書を提出して阿部を首肯させた。

こうして幕府が急遽開いた長崎海軍伝習所に入門を果たした彼はオランダ語に習熟していたため教監に任じられ、長崎で5年間を過ごした。

なかでも伝習所教官カッテンディーケから航海術・砲術・測量術などの近代海軍の教育をうけると同時に、ヨーロッパの政体、市民意識というものを教わり、当時最も西洋的意識に近い日本人の一人であったとおもわれる。

しかしその彼でも実際に目からうろこが落ちたのは、万延元年(1860年)、日米修好通商条約の批准書交換に渡米したときである。

アメリカ社会が市民選挙で選ばれた人たちにより運営されているのに驚き、市民中心の政体こそ発展の礎であると確信したのであった。

帰国後軍艦奉行に就任した勝は、神戸に海軍士官養成機関・海軍工廠である海軍操練所を設立し、薩摩や土佐を問わず、広く全国に人材を求めた。

もはや彼の頭には幕府の海軍でなく、日本海軍の建設計画が描かれていたのである。

当然のことながら彼は幕府首脳から睨まれて軍艦奉行を罷免され、2年の蟄居生活を送ることとなった。

しかし幕府に勝に代わる人材はなく、慶応2年(1866年)、再度軍艦奉行に復帰。

徳川慶喜に第二次長州征伐の停戦交渉を任された。

勝は単身宮島に赴き長州の説得に成功したが、策略家・慶喜の朝廷工作により彼の努力は徒労に終わった。

時間稼ぎに利用され、主君に裏切られた勝は憤然として職を辞したのである。

しかし明治元年(1868年)、官軍の東征が始まるや、またも勝は幕府に呼び戻され、将軍にかわり軍事総裁として江戸幕府の幕引きを任されたのである。

周知のごとく、江戸城の無血開城により江戸150万人の生命が戦火から救われた裏には、勝を信ずるに足る人物と見込んだ西郷の至誠があり、勝、西郷ともに命を賭した決断が見事に結実したのである。

それにしても江戸城引渡しのあと、あとは勝さんがなんとかなさるだろうといって飄然と江戸を去った西郷の度量はどうであろう。

勝は終生この西郷の胆力を愛でたという。

維新後の勝は政府高官に取り立てられたが、幕末にすべてを燃焼しきったかのように、目立った活動はせず、悠々自適であった。

ただ、旧幕臣の生計を気に懸け、横浜港に10万人、静岡に8万人の旧幕臣を送るなどして彼らの生活幇助に尽力した。

また勝は徳川慶喜の怜悧を嫌ったが、晩年には静岡に隠棲した彼を赦免させるよう明治政府に働きかけている。

おかげで慶喜は30年ぶりに東京へもどり、明治天皇に拝謁し公爵を授爵、大正まで生きて76歳の天命を全うした。

幕末、西郷に首をはねられかけた慶喜が徳川歴代将軍のうち最も長命となったのは、まことに運命の皮肉といえよう。

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