本願寺物語


もともと本願寺はお寺でなく、廟堂である。

1262年、親鸞は亡くなったあと、「大谷」の地に納骨され、のちに信徒が参詣するための廟堂が建てられて「大谷廟堂」と尊称された。

廟堂は親鸞の末娘・覚信尼の子孫が代々世襲、管理するようになり、3代あとの覚如によって廟堂を寺院化し、「本願寺」(あるいは大谷本願寺)と呼ぶようになった。

本願寺の名は、大谷廟堂に亀山天皇が下賜された「久遠実成阿弥陀本願寺」に由来する。

これより後、本願寺教団は移転時に親鸞の「御真影」を安置している寺を「本願寺」と呼ぶようになった。

当時、我が国の仏教界を支配していたのは、比叡山延暦寺で、法華経を中心におく天台宗である。

平安時代の初め、最澄は世俗に堕す僧侶が相次ぐため、都から離れた比叡山の山中に延暦寺を建て、修行・学問に専念させたのである。

密教一筋の真言宗と異なり、天台宗は戒律・浄土思想・禅など様々な教理を含む総合大学で、なかでも法華経を最高教典とした。

そして500年の長きにわたって仏教界最高の修行道場として君臨した。法然、親鸞、日蓮、栄西、道元など新宗教を興した俊英は、その青年期、ことごとく比叡山延暦寺に学んだ。

法然

ところが、法然は入山修行をするものだけに開かれた聖道門に不審を抱き、どのような人でも称名念仏すれば必ず阿弥陀如来により救われるという浄土門仏教を唱えたのである。まさに仏教界の価値観を根底からくつがえす大事件であった。

浄土宗が専修念仏(せんじゅねんぶつ)に力点を置くのに対し、浄土真宗が念仏を唱えずとも信心さえあれば救われるという違いはあるが、阿弥陀仏は煩悩から抜け出せないでいる者こそ救いの手を差し伸べてくれるという思想は、庶民の圧倒的な支持を得た。

ちなみに親鸞自身は法然の弟子として終生浄土宗に帰依したのであって、浄土真宗とは彼の死後、弟子たちが作った宗派である。

いずれにしても、比叡山で苦行に明け暮れる僧侶からみれば、修行もせずに念仏だけで極楽往生できるなどというのはとんでもない考え違いで、実に胡散臭い新興宗教である。当然ながら既存宗教の集中攻撃をうけた。

浄土真宗はその後、いくつかの派閥に別れたが、なかでも本願寺派は100年以上にわたり、延暦寺への忠誠と念仏の禁止を条件にかろうじて存続を許されるという辛酸をなめた。

こうして本願寺派は京を離れ、宗教的に過疎だった越前、加賀など北陸方面での生き残りを図ったのである。

これに先立つ少し前、浄土宗門下の一向俊聖が一向宗を始めていた。ただ遊行や踊り念仏をおこなうことから、一遍の時衆と混同されたり、同じ浄土宗から派生し念仏を唱えるため浄土宗や浄土真宗とも混同された。

本願寺派の出現するころにはすでに北陸地方に広く伝わっていたため、後から来た浄土真宗はしばしば一向宗と同じようなものとして捉えられた。

このため、みずからは浄土真宗あるいは真宗と称したが、世間からは一向宗あるいは門徒宗と呼ばれ、のちに浄土真宗の門徒による一揆は「一向一揆」と呼ばれるようになった。

蓮如

このように本願寺派はほそぼそと命脈を保っていたが、親鸞の死後200年を経て、本願寺八世、蓮如が登場し、状況は一変する。ちょうど応仁の乱が勃発し京の都がことごとく戦場に化していたころである。

蓮如は加賀と越前の国境・吉崎に山寺を建立し(吉崎御坊)、布教を始めた。

彼は、「仏教は人々を差別しない。阿弥陀如来を信ずる人はみな平等に救われ、南無阿弥陀仏を唱えれば、仏の慈悲により救われる」と説いた。

彼は庶民にわかりやすく噛み砕いて説法したため、在地の有力者をはじめ、農民や手工業者、行商人など幅広い層に支持され、爆発的に信者を増やしていった。

蓮如の布教は、直接説法のほか、門徒にあてた手紙の形で書かれ、集まった門徒の前で字を読めるものが代読した。その手紙は「御文」(あるいは御文章」と呼ばれ、きわめて分かりやすい内容となっている。

また蓮如は、信者がなんでも話し合える場として「講」をつくり、それが大きくなると「道場」、さらに大きくなると「寺」とした。

こうして本願寺を頂点にピラミッド型の信仰組織ができあがり、その結束はきわめて固いものとなった。

吉崎御坊には、瞬く間に北陸ばかりか奥羽からも参詣者が詰めかけるようになり、吉崎は一大宗教都市となった。蓮如の布教の見事さを如実に物語っている。

しかし一方で、周辺の権力者や他宗と軋轢を生じ、4年後、蓮如は火災で寺院が消失したのをきっかけに吉崎を去り、京都・山科に本願寺を建立。

この後、真宗他派が相次いで本願寺に帰参したため、本願寺は全国的な教団へと発展した。

そもそも武家政権は農民や商工業者の上に立つ縦社会である。これに対し、信仰のつながりで結束した宗教集団は身分を問わぬ横社会であって、明確な形がない。

蓮如の説く平等の教えは、支配者による縦社会を否定することとなった。ほどなく本願寺は寺の枠組みから離れ、宗教の一大ネットワークを形成し、時に大名をも恐れさせる武力集団と化した。

そして門徒たちは意見が通らぬと、武装して一揆を起こすようになった。

1488年には加賀の本願寺教団が一向一揆を起こして守護の富樫氏を追放し、みずから自治をおこない、百年にわたり「百姓の持ちたる国」を現出した。

その後、山科本願寺は戦災にあったため、第10世証如は蓮如が開いた石山御坊へと移り、石山本願寺とした。

石山本願寺

完成した石山本願寺は要塞化した城郭というべきもので、最大の武家勢力織田信長と対峙し、10年にわたる死闘を繰り広げたのである。

しかし、1580年、信長との抗争に敗れて顕如が石山本願寺を退去した後は、一向一揆も鎮火の一途をたどった。

秀吉の時代となって本願寺は再び京都に戻ることとなった。

顕如が死んだあと、遺言で3男准如が跡を継いだ。長男教如は石山本願寺の退去にあたり、父と対立し徹底抗戦を唱えた経緯がある。

家康はこの軋轢を利用し、本願寺勢力を弱める目的で、准如の西本願寺(浄土真宗本願寺派)に対し、教如に東本願寺(真宗大谷派)を継がせた。

この時から本願寺が西と東に分立したのである。

現在、本願寺派(西本願寺)の末寺・門徒が中国地方に多い(安芸門徒など)のに対し、大谷派(東本願寺)は北陸・東海地方に多い(加賀門徒、三河門徒など)傾向がある。

また、親鸞の血統をひくといわれる大谷家は代々公家との通婚が続き、公家化が進んだ。

さらに江戸時代、本願寺はしばしば疲弊した公家の門跡を買って公家化し、末寺にまで公家言葉が普及したため、他の宗派から妬みやそしりをうけた。

ところで、徳川家は菩提寺の増上寺が浄土宗であり、浄土宗から見れば、浄土真宗とはいかにも浄土宗より上との印象を抱かせる。したがって浄土真宗でなく一向宗と呼び習わせよと主張した。

当然、浄土真宗側はこれに激しく反発し、江戸時代の終わるまで決着はつかなかった。

この問題は明治時代にまで持ち越され、政府は明治5年、浄土真宗はダメだが略称の「真宗」であればよしとする見解を出した。

さらに太平洋戦争後、国家による宗教統制が解かれたため、西本願寺は浄土真宗本願寺派と名乗るようになり、それ以外の真宗系宗派は、真宗大谷派など真宗の呼称を用いるようになっている。

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