エコロジーの提唱者・南方熊楠(みなかたくまぐす)


南方熊楠は、我が国でエコロジーを初めて唱えた人である。

エコロジーとは人間と自然とが共存していこうとする考え方で、「地球にやさしい生活」とか、「環境にやさしい生活」と言い換えることができる。

明治政府は国家神道の権威を高める為、神社合祀令を出し、次々に小さな神社を破壊した。和歌山では3,700あった神社が一挙に600まで激減したという。

熊楠は後世、鎮守の森を守った大恩人と讃えられているが、彼の頭のなかには、生態系は多様な生物が華厳世界のごとく互いに繋がっており、伐採により環境破壊がおこれば、多くの生物が死滅するという危機感があった。

今でこそ、エコロジーは世に受け入れられるようになったが、100年前にそのような発想をする日本人は稀で、世間の賛同を得るのは至難のわざであった。

熊楠は少年期から植物採集に熱中し、辞典や図鑑の解説を書き写して覚えてしまう異能を示した。

12歳のとき、漢文で書かれた百科事典『和漢三才図会』(全105冊)や植物図鑑25巻を順次記憶して自宅で筆写するという離れ業をやってのけ、その並外れた記憶力は周囲を驚愕させた。

大学予備門では子規や漱石と同期であった。ただ大学での授業が肌に合わず、ほどなく自主退学してしまう。

彼の興味は自然のなかで息づく動植物の生態を自分の目で確かめることであった。

そして「学問はアメリカのほうが進んでいる」と親を説き伏せ、19歳で単身アメリカに渡る。そして植物の宝庫といわれるフロリダなどの山野に出かけ、フィールドワークに精を出した。

さらにキューバ、ベネスエラ、ジャマイカなどにも足を伸ばして植物採集をつづけた。

極東の星座

6年後、植物学会で最も権威のあるロンドンへ渡る。下宿で標本整理を続けながら、たまたま天文学会の懸賞論文に投稿した「極東の星座」が1位となり、科学雑誌『ネイチャー』に掲載された。一躍、彼は有名人となった。

ロンドンでの彼は、大英博物館に入り浸り、「植物も興味深いが人類そのものも面白い」と人類学、民俗学、宗教学に関心を寄せ、興味ある書物を片端から抜き書き、筆写した。

その膨大な内容は、ラテン・仏・独・伊など8ヶ国の言語で標されており、さらに生涯彼が自在に操った言語は、18ヶ国語にものぼるといわれ、語学の天才ぶりが窺える。

「歩く百科事典」といわれた熊楠の口癖は、「読むことは写すこと。読むだけでは忘れても、写せば忘れぬ」であったという。

8年間のロンドン生活を終え、14年ぶりに帰国した彼は以後、紀州・田辺市に居を構え、民間の研究者として生きることになる。

ただ学歴がなく、研究所にも所属していなかったため、研究機関から招聘されることはなかった。

「肩書きがなくては己れが何なのかもわからんような阿呆どもの仲間になることはない」というのが彼の持論で、相変わらず近所の山野に出かけては標本採集に精を出した。

そして3年にわたる熊野地方の植物調査をおこなって、植物や昆虫の彩色図鑑を完成した。

彼の研究対象は、主に淡水産藻類、菌類そして粘菌の3つであるが、とくに粘菌研究には情熱を傾注した。

粘菌

粘菌は形を自在に変化させるので「変形菌」と呼ばれたり、胞子を散布するので「ホコリカビ」と呼ばれる。

しかし動物としての一面と植物としての一面を合わせ持ち、一晩で動物(変形体)から植物(子実体)へ変身する自然の神秘に、熊楠は魅せられたと思われる。

その後、彼は分類整理された粘菌標本を大英博物館に寄贈した。のちにこの業績は英国植物学雑誌に発表され、彼は粘菌学者として世界に認知されることとなった。

しかし、彼自身は植物学の新たな知見を専門誌に投稿はせず、図譜集の形に集大成しようとした。後年、太平洋戦争のさなか70歳になった彼は、家族や弟子達の援助をうけながら、4,500種・1万5千枚のカラー図譜「日本菌譜」を完成させたのである。

一方で、民俗学、宗教学など植物学以外では、膨大な知識をもとに次々に論文を発表した。

鎮守の森

こうしてミナカタの名は海外では広く知られるようになったが、相変わらず国内では無名であった。そんな中、アメリカ農務省から役人が来日して彼に入省の要請をおこない、日本政府を慌てさせた。

無論、破格のグッドニュースであったが、ちょうどその頃、彼は国に掛け合って、鎮守の森を保存し自然保護に努めるのに獅子奮迅の活躍をしていた。

そのため、彼はアメリカ農務省の申し出を断り、運動を続けた。

その結果、10年に及ぶ反対運動が実を結び、国会で神社合祀中止の決議が採択された。世界遺産となった熊野古道も彼のおかげで、今日がある。

熊楠は終生、自然と向き合って過ごした人だけに、身なりや挙動に縛られることがなく、奇人・変人の噂が絶えなかった。

4年、昭和天皇が田辺湾神島を訪問されたときのことである。

62歳の熊楠は燕尾服に身を包み、粘菌や海中生物の御前講義を行なった。講義のあと、粘菌標本を天皇に献上しようとして、周囲は息を飲んだ。

戦前の当時、天皇は神であり、献上品は桐の箱に収めて捧げるのが常識である。

なんと彼は標本をキャラメルの空箱に入れて献上したのである。側近は肝を潰したが、幸いその場は何事もなく過ぎた。

後年、熊楠の訃報を聞かれた天皇は、「あのキャラメル箱のインパクトは忘れられない」と言って懐かしんだといわれる。

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