尊王攘夷

kalhh / Pixabay


江戸時代、庶民にとって仰ぎ見るのは徳川将軍家であって、京にいる天皇ではない。

この時期、幕府には800万石の収入がありながら、朝廷は幕府からわずか3万石を付与されるだけで、生きながらえている状況である。天皇は京都御所で息をひそめており、庶民の話題にものぼらない存在であった。

この状況を一挙にひっくり返したのが、ペリー来航である。

250年間、内内でのんびりやっていたところへ、いきなりペリーがやってきて、握手を求めるのならともかく、大砲で威嚇しながら自分たちと商売しろというのである。

威嚇に対して、ひとは恐怖を覚える。しかし、その後は逃げの体勢をとるか、断固戦うかどちらかである。

なにしろわが国には武装した200万もの士族がいる。

当然、追い出してしまえという強硬論が全国に横溢した。それは武士だけに留まらず、一般庶民にまで波及した。国家ぐるみで拒絶反応を示したのである。この集団ヒステリーを「攘夷」と呼ぶ。

ところが幕府はペリーの恫喝に気圧され、朝廷に相談しないまま通商条約を結んでしまった。独断で開国を宣言したことになる。

これを聞きつけた血の気の多い連中が、もはや幕府には任せて置けないと倒幕思想に染まり、藩や幕府のしがらみから離れ、「今日からは天皇の家来である(草莽の徒と呼ぶ)」と言い始めたのである。

彼らは自らを「勤王の志士」と名乗り、京へ上り、佐幕派をみつけては殺傷した。勤王の志士などといえば聞こえはいいが、やってることは強盗、殺人と変わらない。

こうして幕末、「尊王」は勤王の志士ばかりでなく、全国士族の合言葉となった。ついには将軍家ですら尊王を唱え始めたのである。

当時、尊王とは京にいる孝明天皇である。ところが、皮肉なことに孝明天皇は生粋の佐幕派であり、倒幕などとんでもないと考えている。むろん自ら陣頭指揮をとるつもりもない。

このため孝明天皇は、幕府の命で京に赴いた松平容保(会津藩主)をことのほか気に入り、容保はこれに応えて、新選組に「勤王の志士」を粛正させ、京の治安の安定に努めた。

さらにいえば、孝明天皇は折り紙付きの攘夷論者である。水戸学による尊王思想にかぶれた者たちは、こぞって攘夷派となった。

皮肉にもペリーのおかげで、わが国は国を挙げて尊王となり、国を挙げて攘夷となった。

攘夷を唱えなければ身の安全が守れない状況であった。

国民が心を一つにしてことに当たるといえば、結構なことのようだが、江戸時代が終わってみれば「尊王攘夷」など、たわ言にすぎなかったことが判明した。

すでに幕末、薩摩や長州は外国船とやりあった結果、とても歯が立たぬと観念した。そこで、攘夷はひとまず中断し、ひそかに外国から武器や船を買い求め、それでもって倒幕に舵を切ったのである。

こうして尊王攘夷の大合唱は、倒幕運動へと展開したのち、明治維新を迎えることになる。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする