巨大古墳の登場


2世紀後半、40年ほどつづいた倭国大乱のあと、結局誰も権力を掌握しきれず、権威の象徴として卑弥呼が選ばれた。

ただし彼女に任せたのは呪術による権威だけで、卑弥呼の邪馬台国が実権を握ったわけではない。象徴天皇のごとき地位にいる。

弥生時代と呼ばれるこの当時、呪術は宗教というほどの存在である。弥生人にとって銅鐸は、クリスチャンにおけるイコンを意味した。

銅鐸はその荘厳な形状、色、金属音などから魔力を有すると信じられ、卑弥呼は呪術をもって他を圧倒した。

卑弥呼のあとしばらく国内は混乱したが、そのあと一族の壹與によって再び安寧を得たという。3世紀後半、その壹與が中国に朝貢したのを最後に100年余り、中国の史書から我が国の記録は消失する。

前方後円墳

ただはっきりしていることがある。それまで弥生人の心をとらえていた銅鐸が姿を消し、かわりに、前方後円墳が登場する。つまり権威の象徴が銅鐸から墳墓へと転換したのである。

280年ころ、突如として奈良盆地の東南、纏向遺跡のなかに、巨大な箸墓古墳が登場する。我が国最古の大型前方後円墳であり、卑弥呼の墓と噂される場所である。

纏向の古墳群は、まさに我が国初の「都市」というべき風貌を示しており、この頃から、纏向の一帯を大和(やまと)と呼ぶようになったようである。

空白の4世紀といわれるように、この時期の情報はまことに乏しいが、一般には、4世紀初期にあらわれた崇神天皇を大和王権初代の天皇とし、纏向を大和王権発祥の地とする説が強い。

一方、記紀による神武天皇を含む9代の天皇については、実在したかどうかすら曖昧である。さらに邪馬台国が崇神天皇とどのように繋がるのかも、想像の域を出ない。

相前後して、出雲や安芸、吉備にも巨大前方後円墳が登場する。当時このあたりに強大な豪族がいたことになる。とくに吉備の豪族は瀬戸内海航路を押さえ、すでに製鉄、製塩技術を有していた。

このため崇神天皇ら大和王権は、吉備の上道(かみつみち)・下道(しもつみち)氏と同盟関係を保ちながら、出雲、筑紫方面への進出、制圧を果たし、近畿から瀬戸内沿岸および九州北部にいたる支配権を獲得したものと思われる。

四世紀

一方、周辺諸国に目をやると、4世紀に入り中国では北方の遊牧騎馬民族が南下を始めた。こうして五胡十国のひとつ前燕が高句麗を侵し始めたため、高句麗は玉突き様に、朝鮮半島南方へ移動を余儀なくされた。

それにより、漢の武帝以来、中国の出先機関であった楽浪郡(現在の平壌あたり)、帯方郡(現在のソウルあたり)が滅亡し、朝鮮半島は北を高句麗、南を新羅、百済が2分することになった。さらに、半島最南端には小国とはいえ伽耶諸国があって、あたりを窺っている。

4世紀後半には、新羅は高句麗に降ってその傘下に入ったが、百済は当時、と呼ばれた我が国の大和王権に馬や馬具を送ってよしみを通じ、高句麗に対抗した。

ところで、空白の4世紀のなかで唯一、高句麗の好太王碑文に、400年前後のわが国の記録が見える。

これによれば、新羅は王子を質に入れて高句麗の傘下に入ったこと、百済は倭に秋波を送り友誼を結んだが、倭が無法を働き新羅をも侵し始めたため、好太王が倭を打ち破って朝鮮半島に平和をもたらしたという。

好太王の功績を讃えるため、当然ながら倭国に関する記述は、敵意で満ち満ちている。

実際は、倭国が百済を助けて高句麗の南進を阻止し、半島最南の伽揶諸国を守るため、新羅と戦ったのではないかといわれる。

それにしても空白の100年間に、大和政権は海外に1万もの大軍を押し出すほどの力を蓄えていたのである。

五世紀

また、5世紀に入ってからも大和朝廷は朝鮮半島への出兵を繰り返しており、420年頃には応神天皇が南朝・宋に朝貢し、百数十年ぶりに中国の史書に我が国が再登場する。

応神天皇のあと、仁徳天皇、允恭天皇、雄略天皇も中国への朝貢を継続した。依然攻勢を続ける高句麗への対策と、中国の威を借りて国内での覇権を全国に認めさせようという狙いである。

さらに王権の威光を示すため、王の墓すなわち前方後円墳をできるだけ大きく造ることに執心した。応神天皇陵、仁徳天皇陵のようにけた外れの巨大墳墓には、そうした人心掌握の願いがこもっている。

裏を返せば、これだけの巨大墳墓を造らなければ各地の豪族を統制できなかったともいえる。

ただしこの時期、倭国の政権は、鉄の利権で結束した首長連合国家であり、河内(大阪南部)勢力が大和から王権を奪取していたともいわれる。

そのについてである。

なぜ鉄がそれほど重宝されたかといえば、農耕に大量生産をもたらすだけでなく、戦闘において最強の武器(矢じりなど)になったからである。

鉄はそれまで伽耶諸国からもたらされたが、5世紀に入ってからは新羅から大量に入るようになった。

また5世紀に入ると、一度に10人以上を運べる準構造船が一斉に登場し、朝鮮半島から馬も大量に流入した。このため、関東、信濃に牧場がつくられ、馬の飼育、増産が図られた。

それと同時に百済、伽耶諸国からの帰化人が増え、彼らは河内や大阪西南部へ移住して、機織り、土木建築、金属工芸などの技術を伝え、鉄の生産も始めた。

一方朝廷に入って文書の作成、記録もおこなうようになった。わが国の文化水準向上は、実に彼らの尽力によるところが大きい。

そしてついに5世紀後半、雄略天皇(ワカタケル)は政敵葛城氏を打倒し、関東から東海、近畿、中四国全域と九州北半分に至る支配権を確立した。当時の人口分布からみれば、大和朝廷による全国支配はほぼ達成されたといえる。

これに伴い、巨大古墳は急速に姿を消すこととなった。中央集権が確立したため、もはや大きなものを造る必要がなくなったのである。

ただ前方後円墳そのものは小型化されて継承され、6世紀中期、実権を握った蘇我稲目の一喝で方墳に代わるまで、卑弥呼以来、300年もの間続いたのである。

ところが、6世紀半ば、大和王権に仰天すべき事件がおこった。百済より光り輝く仏像がもたらされたのである。それを機に、仏像を安置する寺院が各地に建立されるようになった。

前方後円墳が一世を風靡したとはいえ、一代限りとなる墳墓では効率が悪い。それに比べ、代々先祖を祭ることのできる寺院は、はるかに効率がいい。

こうしてわが国は、銅鐸の時代から前方後円墳を経て、寺院の時代へと、推移していったのである。

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