渡来人のこと

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北朝鮮と日米韓の軋轢が高まる中、ひとたび戦火を交える事態ともなれば、朝鮮半島からの難民が大挙わが国を目指す可能性が現実味を帯びてきた。

じつは過去にも似たような事態があって、一度目は紀元前300年ころ、戦国時代の戦火を逃れ、中国東北部にいたインド満州型(血液型B型)の人たちと長江流域にいた湖南型(血液型A型)の人たちが混じり合い、朝鮮半島を経て北九州へ上陸した。

これが渡来系弥生人で、それまでいた縄文人を北と南の端へ追いやり、全国に広がった。

こうして弥生時代の終わりに人口は100万人に達し、日本人の7割を渡来系弥生人が占めるに至った。

2度目は5世紀から7世紀にかけ、中国と朝鮮半島が政情不安定となり、大陸や半島を経て戦火を逃れたひとびとが大挙来日した。

4世紀後半より朝鮮半島は動乱の時代に入る。中国東北方面にいた北方騎馬民族の南下が始まり、北方を侵された高句麗が南へ退避した結果、新羅が高句麗に降ってその傘下に入った。

一方、百済や伽揶諸国はわが日本(倭)に頼って、高句麗の南進を阻止しようと懸命である。これに呼応してわが国の大和朝廷は、1万もの大軍を擁して朝鮮半島へ押し出した。さらに420年ころには、倭の5王が南朝・宋に朝貢し、中国の威も借りて高句麗の攻勢を凌ぐのに懸命であった。

しかし、高句麗の優勢は変わらず、5世紀前半、多くの避難民が日本をめざしたのは当然といえる。

ちょうどこの時期、対馬海峡を無事に渡航できる準構造船が登場し、鉄と馬を連れた人々が半島を経由して次々に来日した。我が国にはない知識、技術をもった人々も少なからず含まれていた。

当時のわが国は、大阪南部の河内勢力が奈良の大和政権から実権を奪取し、鉄の利権で結束した首長連合の時代である。目を見張るような技術集団の出現に、驚きをもって迎えたことが窺える。

秦(はた)氏、漢(あや)氏、西分(かわちのふみ)氏

5世紀前半を代表する渡来人のグループといえば、秦(はた)氏と漢(あや)氏、西分(かわちのふみ)氏が挙げられる。

秦氏(はたうじ)は中国の秦人に由来するといわれ、新羅の前身・辰韓の王の子孫で弓月君(ゆづきのきみ)を祖とし、数万ともいわれる新羅人を伴って来日した。農業、土木技術のほか、養蚕,機織,酒造,金工技術をもって朝廷につかえ、京都の太秦を中心に全国へ拡散した。そして6世紀には大和政権の財政の一翼を担う地位についた。

東漢氏(やまとのあやうじ)は後漢の霊帝の曾孫・阿知使主(あちのおみ)を祖とし、錦織(にしごり)、鞍作(くらつくり)、金作(かなつくり)など百済系の手工業者集団をひきつれ渡来した。飛鳥の地に居住し,製鉄,機織や土器、武器の生産技術を伝え、朝廷のもとでは文書記録,外交,財政などを幅広く担当した。

「続日本紀」によれば、朝鮮からの渡来人は一時、飛鳥地方の人口のじつに80~90% に達したというから驚く。

後年、蘇我氏は大和朝廷の入口にあたるこの飛鳥の地に本拠地を定め、東漢氏をうまく取り込んで朝廷内での地位を築いていった。

また、西文氏(かわちのふみうじ)は百済から迎えた秀才の誉れ高い王仁(わに)を祖とし,わが国に文字を伝えた渡来人である。河内に居住し、朝廷内で文筆や出納などを担当し、外交文書作成を一手に引き受けたという。

ところで5世紀後半にいたり、わが国の政治体制に大きな変化がおこった。

専制君主政権の樹立

雄略天皇がそれまでの首長連合政権を解消し、天皇中心の専制君主政権を樹立したのである。

日本書紀によれば、雄略以後の渡来人は、百済より献上された手工業専門技術集団という意味で今来才伎(いまきのてひと)と呼び、それまでの渡来人を古渡才伎(こわたりのてひと)と呼んで区別した。

今来才伎は須恵器作りの陶部(すえつくり)、馬具作りの鞍部(くらつくり)、画工の晝部(えかき)、錦織りの錦部(にしごり)、通訳の訳語部(をさ)など、従来よりはるかに高度な知識や技術をもって当時の政権に仕えた。

仏師・鞍作止利(くらつくりのとり)は代表的な今来才伎のひとりである。

雄略天皇のあといったん大王権は低下するが、500年にいたり、継体天皇が権力を掌握する。

そして継体とその子欽明天皇にかけて、儒教ついで仏教が伝えられ、あわせて医学、易学、暦法・墨・紙などの知識・技術も伝わった。

7世紀に入り、662年白村江の戦いのあと、百済・高句麗があいついで滅亡したため、3度目の渡来人の集団が来日した。そのなかには王侯・貴族も多数含まれていたが、もはや重用されることはなかった。すでに大陸からの知識、技術が広く伝承されていたためである。

なかでも、長年わが国とよしみと通じていた百済人は畿内に住むことを許されたが、敵対していた高句麗人は、東国など地方に分散させられ、徒党を組んで力を蓄えぬよう配慮された。

多くの渡来人が技術・技能集団として、大和政権の屋台骨を支えたのは事実であるが、平安初期に編まれた『新撰姓氏録』によると、 1182の氏のうち 326が渡来人系で、その内訳は,漢が 163,百済 104,高句麗 41,新羅9となっており、滅亡した高句麗、百済の渡来人より中国系渡来人の多いのが目を引く。

5世紀前半から倭の五王の遣使は合計9回にわたったが、その間、南朝は東晋、宋と移り、その宋も479年、滅亡する。この目まぐるしい王朝交代劇ではじき出された人々は、朝鮮半島だけでなく直接大陸からも、海路日本をめざしたものとおもわれる。

我が国が古墳時代から飛鳥時代にかけ、一挙に400万人を越す人口を擁するに至ったのは、50~100万ともいう渡来人が来日したためと推測されているのも頷ける話しである。

われわれ日本人が決して単一民族ではないことに、あらためて気づかされることである。

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