加藤清正・忠広父子の悲運

加藤清正

家康にとってみれば、今後徳川家を脅かすのは、秀吉子飼いの武将たちであろう。

自分の存命中に、これらの武将を目立たぬように、ひとつひとつ潰しておかねばならない。

加藤清正もそのひとりであった。

関ケ原の戦いのあと清正を肥後一国の国主に任じたものの、家康は清正の意外な施政能力に驚いていた。

かつて富山から赴任した佐々成正が、国人衆の一揆に手を焼き、秀吉に詰め腹を切らされた因縁の国である。

ところが清正は、河川の改修や干拓による新田開発に精力を注ぎ、肥後の農業は著しく発展した。さらには田麦を特産品化して南蛮貿易の決済に当て、藩内経済を立て直した。今や肥後の農民から慕われる存在になっているではないか。これでは、文句のつけようがない。

清正にとってみれば、文治派・石田光成への憎悪から、関ケ原では家康の側についたが、なんといっても自分の主君は秀頼公であって、家康ではない。

家康の魂胆を見抜いた清正は、熊本城築城にあたって、まさかの事態に備え、本丸御殿に秀頼をかくまう「昭君の間」を用意した。

そして、関ケ原で覇権を握った家康が二条城に秀頼を呼び出した際は、もし秀頼の身に危険が迫れば、清正は家康と刺し違える覚悟で会見に臨んだといわれる。

会見は円滑に終了したが、翌月清正は船で帰国の途中倒れ、2か月後、熊本城内で落命してしまった。大坂の陣に先立つ4年前のことである。死因は脳溢血というが、地元熊本では、家康による毒殺説が根強くささやかれた。

忠広

しかしこの清正の覚悟は、後を継ぐ息子にはまったく伝わらなかった。なにしろ嗣子の虎藤は江戸住まいで、疑いのかけらももたぬ10歳の若者である。「すわ取り潰しか、転封か」と、藩内は動揺した。しかし重臣たちの奔走で、かろうじて5人の家老による執政が認められたのであった。

これで一段落と思ったが、その後、家臣の内部抗争が表面化し、将軍の裁定を仰ぐ事態にまで発展した。本来ならば、虎藤は藩主として、この責を負わねばならなかったが、不問に付された。

家康なら一気に取り潰したであろうが、幸い虎藤は2代将軍秀忠のお気に入りであった。秀忠から一字をもらい忠広と名乗ったばかりか、秀忠の養女を妻にもらい受ける親密ぶりであった。

知られているように、将軍秀忠とお江の方は、吃音で病弱な二男竹千代よりも、利発な三男国松(忠長)を溺愛している(ちなみに長男は早逝)。その国松(忠長)と虎藤(忠広)は無類の仲良しであった。秀忠とお江が虎藤に甘くなるのは当然であった。

竹千代とその乳母お福は、無念の思いでこれを眺めていたに違いない。

ところが、家康の一喝で3代将軍が竹千代(家光)に決まったところから、忠長、忠広の運命は暗転する。

家光が将軍職を引き継ぐと、ほどなく母お江、ついで父秀忠が相次いで世を去った。

そのころ、たまたま忠広の嫡子・光広の悪ふざけ(土居利勝の疑似幕府転覆計画)が幕威をおとしめると問題になり、さらに忠広が江戸で生ませた子を無届けで熊本に送ったことが幕府を刺激した。

ただちに忠広のもとに「二十一ヶ条の不審の条々を申し渡す。至急出府せよ」との幕令が届いた。

肥後54万石、没収

忠広が弁明のため上京し、品川に到着するや、十分な詮議もなく、「平素の行跡正しからず」との名目で、肥後54万石没収の幕命が下った。反論の余地はない。

忠広は出羽庄内(山形)に一代限り、一万石の所領を与えられ、20人の家臣とともに移住した。以後2022年間、和歌や音曲に親しむなど無念の後半生を送ったという。享年53であった。

加藤忠広の改易は家光の狙い通り、譜代大名の九州進出を確固たるものとした。

家光は虎視眈々とこの機会を窺っていたともいえる。

加藤氏の跡には、豊前小倉40万石の細川忠利が14万石を加増され、54万石の領主となった。

また細川氏の跡には、播磨明石の小笠原忠真が15万石で入り、豊後杵築藩には忠真の弟忠知、豊前中津には播磨龍野の小笠原長次、豊前竜王には、摂津三田の松平重長がそれぞれ入り、徳川政権を盤石なものとした。

忠長の狂気

将軍職についたとはいえ、家光にとって、弟忠長は最も煙たい存在であったに違いない。

家康の死後、すでに忠長は甲府、駿河、遠江、55万石の大名となっていた。

そのころから、忠長の行状には少しずつ異常が見られ始める。

たとえば、酒に飲んだ勢いで家臣や茶坊主を殺害したり、少女を犬に食わせたり、女中に酒を飲ませて締め殺すなどの悪行が目立ってきたという。

忠長の狂気じみた行動を知った秀忠は、即座に彼を勘当し、処分を家光に一任した。

家光は忠長に甲府への蟄居を命じ、父秀忠の死後ほどなく改易処分とした。処分はそれにとどまらず、翌年には、幕命により忠長は自刃に追い込まれたのであった。

加藤清正・忠広父子も、徳川忠長も、徳川本家にとっては厄介な存在であったといえる。そういう目でみると、清正の不審な死、忠広の理不尽な改易、忠長の狂気は、いずれも不自然さを感ぜずにはいられない。

歴史は勝者によってのみ語られる。これらががすべて将軍家の都合がいいように書き換えられているとすれば、彼らの無念はいかばかりであろう。

しかし一方、この一連の行動は、諸大名に対する新将軍・家光の断固たる決意を表明したものといえるだろう。

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