出島のオランダ商館長 ドゥーフ

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江戸時代、わが国が西洋を覗き見ることができたのは、長崎出島のオランダのみである。

孤立化を懸念する徳川吉宗は、1720年、殖産興業、国産化奨励のため禁書令を緩和し、キリスト教に無関係の書物の輸入を認め、西洋知識の導入に乗り出した。

さらに田沼時代には、オランダの医学書『ターヘル・アナトミア』が『解体新書』として翻訳刊行され、医師のほとんどはその精緻な解剖図譜に、目からうろこが落ちたといわれる。

これ以降、蘭学はオランダ通詞から蘭学者を通じて蘭学塾の興隆をもたらし、薬学、博物学、天文学、物理学、化学、地理学などの自然科学がつぎつぎに蘭書を通じて紹介され、全国各地に広まった。

出島の商館長 ドゥーフ

ところで、人工的に造られた長崎の出島は約4000坪の広さで、医師、大工、料理人など十数人のオランダ人のほか、日本の役人や通詞の家、倉庫など65棟が建ち、菜園もつくられた。

長崎出島の商館長はカピタンと呼ばれ、通常なら1~2年の勤務だが、1803年から17年もの長きにわたって、カピタンをつとめたのがヘンドリック・ドゥーフである。じつは彼には母国に戻れない事情があった。

1793年、母国オランダがナポレオン率いるフランス革命軍に占領されて滅亡し、1815年に再独立を果たすまでの22年間、なんとオランダの領土は地球上からなくなっていたのである。

1811年、イギリスはオランダ領東インドを制圧したあと、長崎にいるドゥーフを威嚇し、出島の商館明渡しを要求した。これに対し、ドゥーフは時間を稼ぎながら必死で拒み続けた。その心痛は察するに余りある。

そのうち、ドゥーフらは一計をめぐらせ、中立の立場をとるアメリカに依頼し、貿易の代行をしてもらうことによって、かろうじて日蘭貿易を継続できることになった。

長崎の住民も祖国を失いながらひたむきに生きるドゥーフらには同情的で、収入を絶たれた彼らは住民の好意で借金をしながらも、なんとか生計を立てていた。

「ドゥーフ・ハルマ」の編纂

もともとドゥーフは商人である。貿易により利益を得るのが目的であって、日本文化にさほど興味があるわけではない。
しかし、このまま座して死を待つわけにはいかない。出島にいてなにかできることはないか。そこで思いついたのが蘭日辞書の編纂であった。

ドゥーフはフランソワ・ハルマ編纂の蘭仏辞書をもとに、通詞の助けを借りながら辞書の編纂に着手した。実はすでに1799年、13巻におよぶ蘭日辞書「ハルマ和解」ができていたのであるが、彼は実用性を考慮し、文語よりも口語を重視した編纂に取り組んだ。

また例文もふんだんに盛り込んだため、じつに使いやすい辞書となった。ただ、50,000語全58巻という膨大なものとなった。20年をかけ完成したこの辞書は「ドゥーフ・ハルマ」と呼ばれ、蘭学者たちから絶賛された。

ドゥーフ後世に名を残す

この時期、蘭学を通して西洋の学問に関心をもつ若者が急増しており、「ドゥーフ・ハルマ」のおかげで、各地に蘭学塾がつくられるようになった。

ただ総頁数が3,000もあり、複製は写本のみであったため、出版数はわずか33部と希少であった。

当時、貧乏蘭学生であった25歳の勝海舟は、蘭医・赤城玄意から「ドゥーフ・ハルマ」を年10両(約120~130万円)で借り受けた。そして1年がかりで写本2部を完成し、1部を売って生活費に充てたという。

また、天下に名高い緒方洪庵の適塾でも、「ドゥーフ・ハルマ」は貴重品として珍重された。適塾には月に6回ほど「会読」と呼ばれる蘭語翻訳の試験があり、塾生は「ドゥーフ・ハルマ」を求めて殺到した。

しかし辞書はたった1部しか無く、持ち出し厳禁のため、列をなして「ドゥーフ部屋」へ行き、3畳程の部屋で辞書を引かざるを得ない。このため、ドゥーフ部屋では夜通し、ろうそくの明かりが消えることはなかったといわれる。

こうして「ドゥーフ・ハルマ」は蘭学を学ぶ者のバイブルとなり、ドゥーフは後世に名を残すこととなった。

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