長州の怨念

若いころ、姫路城を見て、播磨52万石をもってしても、なお不相応な巨大城郭に驚いたものだが、その後、それは家康の命による薩長への防波堤つまり要塞だと教わった。

家康は後世、徳川に弓引くものは、恐らく長州か薩摩あたりと見当をつけ、瀬戸内沿岸に譜代親藩をおいて、西方に睨みを利かせたのである。もしも姫路が破られれば、大阪城、それでだめなら名古屋城、最後は天下の嶮・箱根で食い止める目論みを立てたという。

毛利輝元の不見識

ひるがえって、その長州の内情はどうであったろう。

天下分け目の関ヶ原における毛利の動向は、まことに奇怪というほかない。東軍を率いる家康に対し、西軍の総大将は5大老のひとり、毛利輝元(47歳)である。しかし実質上は石田三成が采配を振るっており、輝元は祭り上げられたというのが相応しい。

さてその輝元であるが、20年ほど前、彼は備中高松城をめぐり、4万の軍勢で羽柴秀吉と対峙したことがある。しかしこの時は秀吉の計略にまんまとひっかかって和議を結び、城主清水宗治を無駄死にさせたばかりか、彼を取り逃がしてしまった。

毛利家には乱世のさなか、若き輝元を支える吉川元春、小早川隆景という軍師の叔父が付いていたが、秀吉亡き後、混乱の中でふたりを失った輝元は、自ら重大な決断をした経験がなく、とるべき態度を決めかねている。

関ヶ原への序章

ところが時世は急展開する。家康が上杉を討つべく大阪城を出発したのである。

裏には、関ヶ原にいたるストーリーが仕組まれており、これは誘い水である。

その家康の戦略に、まんまと輝元は乗せられようとしている。

家康が去って、大阪城に取り残された秀頼公をどうするか。輝元は石田三成や外交僧・安国寺恵瓊の誘いに乗り、重臣たちに相談なく、西軍の総大将を引き受けてしまうのである。

しかし、家康は希代の名将である。輝元とて、真っ向勝負しても勝ち目のないことは重々承知している。

自分は淀君、秀頼親子の安全を守る名目で、大阪城に入ったのであって、家康と正面から戦う気はない。そもそも関ヶ原は、秀吉の部下たちによる文知派と武断派の内紛ではないか。

彼の脳裏には、大阪を出た家康には東国を任せ、大阪から西は自分が統治して、ともに豊臣家を支えるという都合よい構図を描いていたふしがある。もしそう考えたのなら、側近は何と浅はかなと、嘆息したに違いない。

輝元に家康と勝負する気がなかったのは、関ヶ原には1万の兵を秀元と広家に預け、自身は洞ヶ峠を決め込んだことでもわかる。

実際、彼は自軍の兵3万を大阪城内に留めたまま、三成の催促にも応ぜず、関ヶ原に出陣しようとはしなかった。

参謀・吉川広家

吉川元春についで小早川隆景が他界したのち、輝元は元春の子、広家を参謀に任じた。広家の軍略は父親譲りといわれ、毛利家中にあって唯一、暗闇に射す一筋の光りと思えた。

広家は秀吉亡き後、家康にかなう敵はなしとみて、輝元には東軍につくべしと諫言したが、輝元は三成や安国寺の巧言に乗り、西軍の総大将になってしまった。

かくして輝元が西軍の総大将を引き受けた以上、もはや後には引けない。

毛利家を預かる広家は大変である。暗愚の主君には不義理をするが、ここは何としても毛利家存続を専一にせざるを得ない。

関ヶ原の合戦が迫るなか、広家は毛利重臣と密会し、善後策に知恵を絞った。

そして、厚誼のある東軍・黒田長政を通じ家康に、毛利の出陣は形ばかりで決して手を出さないことを確約し、その代わりに毛利家存続の約定を取り付けた。

こうして合戦当日、広家は桃配山の家康を背後から見下ろす南宮山に布陣したうえで、さらに背後にいる総大将・毛利秀元の進撃を阻止したため、毛利勢は身動きできぬまま終戦を迎えた。

家康の魂胆

結果は東軍の完勝となり、毛利軍は戦わずして戦場を離脱することとなった。

ところが、関ヶ原の終戦後、黒田長政から広家のもとへ意外な書簡が届いた。

家康が毛利領安堵を約束したのは、輝元が止むに已まれず総大将に担ぎ上げられたという事情を斟酌してのことである。

ところが、大阪城内から発見された西軍の連判状には、輝元の花押が認められているではないか。これは明らかな約束違反である。したがって毛利の所領は没収のうえ改易されるであろうという過酷な内容であった。

代わりに広家の功は認め、周防・長門の2ヶ国を与えるとの沙汰である。

毛利家取り潰しの報に、広家は臍をかんだにちがいない。これではわが身の立つ瀬がない、自分は無一文になっても、せめて周防、長門だけは毛利家に譲っていただきたいと、直接家康に懇願し、なんとか了承を得た。

一戦も交えずに、120万石から30万石に減封された輝元の失意は、いかばかりであったろう。

それはひとえに広家の背信行為にあると、輝元以下多くの家臣が自らを省みず、彼を糾弾した。予測されたこととはいえ、広家の無念は察するに余りある。

こうして防長2州へ押し込められた輝元は、萩に本拠を置き、不本意ながら広家には岩国3万石を与えた。広家は黙ってこれを拝領し、生涯領内統治に専心したという。

長州家臣団の怨念

それにしても、西国11州120万石をおさめる毛利家が僅か2州30万石に閉じ込められたとき、多くの家臣が農民に身をやつしてでも、防長2州へ移住したという。そして家臣一団となって新田、塩田開発、和紙生産に取り組み、この難局を乗り切ったのである。

こうして270年の間、徳川に対する彼らの遺恨は延々と引き継がれ、後世、高杉晋作が奇兵隊をたち上げたとき、彼らは積年の恨みを晴らさんと晋作のもとへ参集したのである。

ちなみに奇兵隊は我が国初の農民たちによる武装組織といわれるが、其の身には戦国武士の血が流れていたのである。

戊辰戦争は、かつて家康にしてやられた西国武士たちの怨念が噴き出したものという見方もできぬことはない。

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