松坂屋と竹中工務店の絆

名古屋の「いとう屋」といえば、のちの「松坂屋」としてつとに名高いが、江戸時代には尾張藩御用達商人として藩財政に関わり、明治維新後は公金を取り扱い、伊藤銀行、東海銀行を経て、現在の「三菱UFJ銀行」に至っている。

もともとは、信長の小姓であった伊藤祐広の子が商人司を命じられたが、信長死後、家康より清須から名古屋への集団移住を命じられ、かの地で呉服小間物商「いとう屋」を創業したのが始まりである。強制移動させられた仲間うちには、後年、竹中工務店を興す竹中藤兵衛正高もいた。

その後「いとう屋」は地道な商いが功を奏し、元文5年(1740年)には 尾張藩の呉服御用となり、明和5年(1768年)、ついに江戸へ進出するまでになった。

いとう屋が松坂屋を買収

話しが変わるが、ちょうどこの頃、「江戸名物は伊勢屋、稲荷に犬の糞」と揶揄されたほど、江戸には伊勢屋を名乗る店が多かった。当時、伊勢屋はブランド化していたため、伊勢出身でない商人もこの屋号を利用したようである。

とくに伊勢は高級生地である木綿の生産地であったため、越後屋(のちの三越)など呉服店を出店するものが多かった。

宝永4年(1707年)のこと、伊勢松坂の商人・太田利兵衛も江戸上野に呉服店を開業し、松坂屋を名乗った。ところが明和5年(1768年)、3代目のとき、事情で松坂屋は身売りせざるを得なくなり、江戸に進出したばかりの「いとう屋」に買収されることとなった。

このとき「いとう屋」のとった選択が、江戸市中で話題となった。通常、買収した場合、買われた側の名は消し去るのが常である。

ところが「いとう屋」は買収した相手の屋号を採り入れ、「いとう松坂屋」(大正時代、松坂屋となる)を名乗ることにした。

江戸に出てきたばかりの自分より、市中に知れ渡っている松坂屋の屋号を利用するほうが得策と判断したのであろう。家門を重んじる武家ではありえない発想である。

「いとう屋」は武家の出ではあるが、150年の年月を経て、すっかり商人の頭になっていたといえる。

いとう松坂屋と火事の関わり

翻って松坂屋の歴史をみると、火事との関わりが深いことに気づく。

万治3年(1660年)1月14日、名古屋で左義長の行事が行われた夕方、火災が発生した。左義長とは小正月に1年の無病息災を祈り、正月の飾り物を集めて焼く行事である。

火は城下町の東半分を焼き、町屋2,247軒、武家屋敷120軒が被害にあった。このとき、商いが順調なため茶屋町に進出したばかりの「いとう屋」も類焼してしまった。

しかし、ここが正念場と腹をくくった若き当主は、直ちに京に出向き、衣類、古着をかき集めた。そして名古屋に戻った彼は、困窮する人々にすべてを惜しげもなく原価販売したのである。

これを機に「いとう屋」は庶民の圧倒的支持を得るのに成功した。不運をチャンスととらえた逆転の発想が、功を奏したのである。

再度、火災に遭遇

それから200年の後、江戸を舞台に「いとう松坂屋」は再び火災と遭遇する。

安政2年(1855年)11月11日深夜に発生した、世に名高い「安政の大地震」である。地震直後に市中数十か所から出火した。朝からの小雨模様で延焼は抑えられたものの、武家屋敷の8割が被害をうけ、死者は1万人に上ったという。

余談だが、このとき小石川の水戸藩邸も倒壊し、水戸学の主導者・藤田東湖、戸田忠太夫らが圧死した。このため水戸藩は指導者を失って混乱し、5年後、桜田門外の変を引き起こすのである。

このとき、上野の「いとう松坂屋」も全焼の被害にあった。名古屋でこの知らせを聞いた当主の伊藤祐良は、ただちに再建に乗り出し、部下を叱咤激励しながら、わずか1か月で仮店舗での営業再開にこぎつけた。

そして各地から木材をかき集めて海路、江戸に送り、旧知の竹中組に依頼し、1年足らずで店の再建を果たした。輸送インフラの不備なこの時代、時間が勝負とみた当主の離れ業であった。

しかも開店にあたっては、大売り出しの広告5万枚を江戸市中に配布し、名古屋から送られた景品も付けて販売したため、「いとう松坂屋」の地位は不動のものとなった。ここにも不運をチャンスととらえる逆転の発想が、生きている。

以後、「いとう松坂屋」は「松坂屋」と名を変えながら、名古屋を本拠地とし、250年にわたって全国展開していくのである。しかもそれを陰で支えるのが、清須以来の仲間、竹中組のちの竹中工務店である。

清須越しで結ばれた伊藤と竹中

その竹中工務店は、織田信長の普請奉行、竹中藤兵衛正高が信長の死後、二君に仕えずとして武家を捨て宮大工となり、清須で神社仏閣の建築に携わったのが始まりである。

ところが関ヶ原の戦いのあと、家康は戦略上の理由から清須城の廃城と名古屋城の築城を決定し、清須住民に名古屋への強制移住を命じた。この過酷な「清須越し」に堪えた商人たちには武家出身者が多く、彼らの間には固い絆が結ばれたのであった。

百貨店・松坂屋の創始者・伊藤蘭丸祐道と竹中工務店の創始者・竹中藤兵衛正高はその代表的存在で、両家の結束は以来400年の長きにわたる。

したがって、江戸時代より今日に至るまで、松坂屋の建築のほとんどを竹中工務店が請け負っているのは、深い信頼関係があってのことである。

ところで、竹中藤兵衛正高は日本伝統建築にとりわけ造詣が深く、江戸時代を通じ竹中家は、設計、施工はすべて棟梁が責任をもって取り仕切るべきとのコンセプトを貫いた。

明治に至り廃仏毀釈で経営は危機を迎えたが、一転、欧米の建築技術を習得するのに専念し、逆に神戸へ進出した。

工務店を名乗る

創業以来、竹中には設計、施工は一体という通念があり、これを具現するものとして明治42年、「工務店」という用語を造り、自ら「竹中工務店」と名乗った。

以来、竹中は土木建築を捨てて(0.4%)建築専業とし、個性的な設計、建築物にこだわり、施工した建物を「作品」と呼んで大切に扱った。

その結果、業界で最も評価の高いBCS賞(建築業協会賞)を最多受賞するに至っている。

現在、スーパーゼネコン5社のひとつに位置づけられ、東京タワー、成田・関西国際空港ターミナル、あべのハルカスや5大ドーム球場など、巨大建築にも成果を上げているのは周知のごとくである。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする