運慶のリアリズム

 建仁3年(1203年)は運慶にとって記念すべき年となった。東大寺南大門に巨大な金剛力士像が完成し、運慶は僧侶の最高位・法印に任ぜられたのである。

 

すでに治承4年(1180年)、平重衡(清盛の子)が、ことあるごとに平氏に反抗的な奈良の仏教徒に腹を立て、あろうことか奈良の大寺に火を放ったのである。このため、興福寺も東大寺も一夜にして灰燼に帰したのであった。

 

このため、運慶ら奈良を本拠とする仏師たちは、焼け野原のなかで、明日の食にも事欠くほどに生活は困窮した。興福寺を生活の拠点とする運慶の、平氏に対する憤りは、いかばかりであったろう。

 

この時期、平安貴族は実権を平氏に奪われ、宮廷貴族の多くは西方浄土を夢見て、京の仏師たちが造った優雅な阿弥陀如来像に、来世の極楽往生を祈願していたのである。

 

遣唐使の派遣を中止して300年、唐の影響は徐々に薄れ、わが国独自の美術がつくられていた。仏像の世界も同様である。仏師定朝により、伏し目・丸顔の穏やかな風貌と優美な体つきの仏像が貴族趣味と一致し、その弟子・院尊率いる院派と明円率いる円派が、京の主流をなしていた。

 

運慶の憂鬱

一方、遠く京から離れた奈良仏師たちは、宮廷貴族の庇護もなく、東大寺や興福寺の仏像の補修やわずかな造仏で生計を立てている。それを率いるのは運慶の父・康慶で、身分は下級の堂衆である。当然、京仏師たちからは見下される立場にあった。

 

ただ、運慶ら奈良仏師たちが日頃目にするのは、400年も前の天平時代に造仏された華麗な仏像たちである。ちょうど唐の全盛期にあたり、唐の仏教美術がそのまま日本に持ち込まれたため、仏像は写実性に富み、筋肉質で豊満、動きに勢いがある。

 

それに比べると、今の京で貴族にもてはやされている仏像はどうであろう。運慶からみれば、中性的で躍動感がなく、優美なだけではないかという不満がある。

 

そのうち、東大寺、興福寺が復興されると聞いて、運慶一族は胸をなでおろしたことだろう。

寺を復興するには仏像が要る。これで、とりあえず、失業だけは免れたという安堵である。

しかし、いざ造仏となると、京仏師たちが黙ってないのではないか。院派や円派の連中が乗り込んでくるのではないかという心配がつきない。

 

案の定、興福寺の再興にあたり、主体となる金堂や講堂の造仏は円派・院派が担当し、運慶ら奈良仏師には南円堂の造仏があてがわれた。

 

しばらく運慶は興福寺西金堂本尊釈迦如来像を造っていたが、寿永2年(1183年)、以仁王の令旨を受けて挙兵した源義仲が、都で平氏を打ち破った時から、潮目は一転、平氏から源氏へと変わり始めた。しかもその流れは急速となり、わずか2年後には壇之浦において、平氏一門は滅亡するのである。

 

鎌倉武家政権の登場

運慶は湧き上がるような喜びを感じていた。400年間にわたって、宮廷貴族が権威を振りかざし、庶民を一顧だにしなかった時代が終わろうとしている。

 

関東に住む農場主が武器を持って立ち上がり、源頼朝を棟梁に武力集団を形成し、京の貴族の所有地を自分たちの手に奪い返したのである。

鎌倉に生まれた武家政権は、徹底したリアリズムが理念である。

 

仏の世界もそうではないか。優美に微笑んでいるだけでなく、天平美術のように、表情豊かで人間的な仏像こそ真実だという思いが、運慶を突き動かしていた。

当時、20代後半の運慶がその思いで挑んだといわれるのが、奈良円城寺の大日如来坐像である。彼は無表情、無感動な仏像に見切りをつけ、人間臭さをもつ写実的で力強い仏像を造り上げた。

 

運慶の仏像は異彩を放ち、ほどなく鎌倉武士団の目に留まるところとなった。

運慶が北条時政に依頼され、北条氏の氏寺・願成就院に収めた不動明王、二童子、毘沙門天像には、歓喜、憤怒あるいは思案にふける人間味豊かな表情が溢れている。

 

運慶の求めるリアリズムと武家政権がめざすリアリズムの方向が合致したのである。その後彼は鎌倉にいて、政権要人から依頼された造仏にいそしむ日々を送った。

 

一方、焼け落ちた東大寺復興造仏には、運慶の父・康慶を中心とする奈良仏師(康派と呼ばれた)が携わるようになった。

そもそも東大寺とは、華厳宗を信奉する聖武天皇が国家鎮護の為、全国に造らせた国分寺の総本山である。

 

東大寺大仏殿および大仏の再建については、焼失の翌年、僧重源が東大寺勧進職につき、後白河上皇、源頼朝らに寄付を募り、技術者、木材など資材の蒐集につとめた。重源が高齢の西行に対し、奥州藤原氏へ勧進を依頼したのもこの時である。

 

こうして焼失より5年後の文治元年(1185年)には大仏が復興し、後白河法皇による大仏開眼供養が行われ、その後さらに10年をかけて大仏殿が完成した。この時すでに鎌倉幕府が開かれ3年が経っており、頼朝夫妻参列のもと、大仏殿落慶供養が実施された。

 

南大門・金剛力士像

この大仏殿に至る参道の途中に構えられたのが南大門である。重源が、東大寺の総供養に際し、再建したものである。

大仏殿落慶供養より4年後の正治元年(1199年)に上棟し、まる4年の年月をかけて造られた。重源が宋から伝えた「大仏様」と呼ばれる建築様式が用いられている。

 

そして南大門が完成した建仁3年(1203年)、南大門の左右に安置されたのが、運慶、快慶の名作といわれる金剛力士像である。仁王像ともいわれる。仏敵を威嚇する鋭い形相は、今も見るものを圧倒する。

 

左が阿形(あぎょう)、右が吽形(うんぎょう)といい、阿は口を開いて最初に出す音、吽は口を閉じて出す最後の音であることから、宇宙の始まりと終わりを表す真言(仏教の呪文)とされた。

 

この高さ8メートルを超える巨大な2体の仁王像がわずか2か月で完成されたという。無論、事前に慎重かつ十分な下準備がおこなわれていなければ、到底できる話ではない。

 

父で師でもあった康慶が他界したあと、工房の後継者となった運慶が、快慶(運慶の兄弟弟子)、定覚(運慶の弟か)、湛慶(運慶の長男)らを中心とする20名近い仏師集団を率いて、造り上げたのである。1体に約3000個もの寄せ木細工が使われており、事前に緻密な構想を練っていたことが偲ばれるが、造仏の最中にも試行錯誤を繰り返した跡が随所にみえる。

 

あの金剛力士像は決して空想だけでは造れない。必ずモデルがあったはずである。

じつは京の清凉寺に釈迦如来立像がある。983年東大寺出身の僧・奝然が渡宋した際、宋で造らせ、日本に持ち帰ったものである。この像の中に霊山変相図という版画が収められていた。この版画の仁王像が運慶の仁王像と酷似するので話題になった。はたして運慶はこれを参考に構想を巡らせたのであろうか。

 

阿形像は腰を右に捻って立ち、左手は大きく広げて前に突き出し、仏敵の出現に待ったをかけている。一方、吽形像は腰を左に捻って立ち、右腕は折りたたんで肘を高く上げ、手掌を内側に捻って待ったをかける形になっている。

 

長らく、吽形像は立体的で迫真性があるところから運慶の作、阿形像はやや平面的で絵画的であるところから快慶の作といわれてきたが、近年それを否定する資料がみつかり、どうも運慶が全体を指図していたのではという説が強くなっている。

 

運慶はリアリズムを基本としながらも、巨大な仁王像を下から見上げた場合の視覚効果を考えている。つまり、よりリアリティを感じられるよう、仁王像の視線を下向きに修正したり、乳首や臍の位置、裳の上縁を少し下げるなどの修正を加えている。また吽形像では、持ち上げた右腕の角度や長さを微調整しながら、よりリアルな表現に成功している。

 

さらに、腹部は筋肉質のからだに不釣り合いな膨隆を示しているが、ぜい肉をそぎ落とした均整のとれた体躯よりも、膨隆した腹部からくる威圧感を優先させたものとおもわれる。

 

つまり運慶は、必ずしもリアリズムに固執せず、見ている人にとって、よりリアリティを感じられる姿を追求していたといえる。

 

いったい、これだけの芸術作品が室内保存されず、ほぼ野ざらしの状態になっているケースは極めて珍しい。そのわけは、みほとけの教えを妨げる仏敵を東大寺の中に入れないように、仁王が南大門で阻止するため、ここを動けないというのである。

 

南大門の仁王像はよほど鎌倉政権を満足させたようである。運慶はこの年、僧位の最高位・法印の地位を与えられた。身分の低い一介の仏師が僧侶の最高位に達するなど、前代未聞の出世というべきであろう。

 

運慶のライバル・快慶

運慶が一代の快男児であったことは論を待たない。

しかし、身分の低い男が権威ある世界で、のし上がっていくには、地道な努力だけではどうにもならない。よほどの強運がなければ、かなわぬ夢であろう。

 

南都焼き討ちは忌むべき事件であるが、彼にとって東大寺復興は世に出るチャンスとなった。しかも、彼の時代は貴族の世から武士の世への変わり目であった。

彼にとって最大の幸運は、そのダイナミックな力強い作品が武家政権の目に叶ったことである。

 

しかし、それに加え運慶にとって幸運だったのは、よき競争相手がいたことではなかったか。若者が急成長するときには、必ずそばによきライバルがいるといわれる。

それが快慶であった。

 

快慶は運慶と同じ慶派に属していたため、リアリズムを基調とするところは運慶と変わらない。

ただ、敬虔な浄土宗信者であり、阿弥陀如来像を造仏するのに精力を注いだ。したがって仏師というより仏教者として、ブッダワールドのリアリティに挑戦していたように思われる。

 

このため、彼の作品は動的というより静的、雄渾というより清楚、立体的というより平面的である。そしてなにより、精緻で気品があった。

運慶はその気品に圧倒されたであろう。そばにいて、自分にはないものを持っている快慶に

嫉妬し、闘争心を燃やしたに違いない。ライバルとはそういうものであろう。

 

確かに運慶は、地位も評価も最高位を極めたが、年月を経るに従い自分のダイナミズムが飽きられ、ライバル快慶が着実に大衆の支持を広げていくのに、一抹のさびしさを感じていたのではないか。

 

快慶が完成の域に達したといわれているのが、東大寺の地蔵菩薩像である。この像にみる静謐で理知的な顔貌、美しい衣文の流れは、あらゆる階層の人々から、広い支持を得つづけた。

 

彼が追求した造仏様式は、安阿弥様(あんなみよう)と呼ばれ、その後江戸時代にいたるまで、多くの仏師に多大な影響を及ぼしたといわれる。

 

 その後の運慶 

建仁3年(1203年)運慶が法印に任ぜられたのちは、鎌倉からの依頼が仕事の中心になっていったようである。

 

運慶もまた仏師であると同時に熱心な仏教徒であった。彼が目指したのは、人々が身近に感じられる感情をもった仏像である。

彼はひとの生き生きとした表情を、造仏においていかに活写するかに腐心していた。

 

高野山金剛峯寺に彼の手になる八大童子立像がある。不動明王に仕える童子たちで、童子たちの顔には喜怒哀楽の表情が生々しい。そこには、眉や目元の表現に工夫を凝らした、運慶苦心のあとが見て取れる。

 

興福寺は南都六宗の一つ、法相宗の大本山である。藤原氏の氏寺で、平安期には大和国一国の荘園を領し、巨大な伽藍を擁したが、平氏の南都焼き討ちに遭い、その多くを消失した。

運慶は1212年、復興された興福寺北円堂のなかに、弟子たちとともに9体の仏像を製作した。

 

残念ながら現在残っているのは、本尊である弥勒如来像と、その傍に立つ無著(むじゃく)菩薩、世親(せしん)菩薩の立像だけである。これが彼の最後の大作となった。当時の運慶は60歳前後と推測される。

 

最後の大作 無著・世親菩薩立像

世に名高い無著菩薩立像、世親菩薩立像は、ともに2メートル近い巨像である。運慶が工房の弟子、とくに息子の運助・運賀に指図しながら造仏したものだが、際立っているのはその顔貌である。

 

無著の表情からは、難解な唯識を説く苦悩が、世親の表情からは、ひとびとを執着から解き放ちがたい苦悩が伝わってくる。これほど人間臭い仏像はないというほどに、実在感が溢れている。リアリティを追求した運慶渾身の作である。

 

ふたりは4世紀ごろ活躍した法相宗の高僧で、法相とは諸法つまり「目に見えているものは、心がつくり出した影像にすぎず、実体のないものである」という唯識に立脚した宗派である。

いわゆる六識(眼,耳,鼻,舌,身,意)のほかに、深層心理として、ユングの集合的無意識ともいうべき阿頼耶識(あらやしき)と、自我執着意識というべき末那識(まなしき)があるとした。

 

運慶が無著、世親を選んだのは、法相宗の中枢・興福寺にもっとも相応しい人物と考えたからであり、運慶自身、ふたりに関する知識は豊富に持っていたに違いない。

違和感を感じるのは、その顔つきがインド人でなく、日本人の顔をしていることで、インド人を見たことのない運慶がそのことを気にしている風はない。おそらく彼は身近にいる重源などの高僧をイメージしながら、造仏に取り組んだとおもわれる。

 

運慶のあとは快慶や運慶の子湛慶などが工房を引き継ぎ、その後円派や院派が衰退していったのに対し、江戸期にいたるまで、各時代を主導する名工を輩出したのであった。

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