山陽線 鉄道敷設秘話

「青年時代の失敗体験は、将来の成功の尺度となる。すなわち、失敗をどう思ったか、いかに対処したかで彼の生涯は決まる。」

そう言ったのは、普墺・普仏戦争を制し、「ドイツ陸軍の父」といわれる参謀総長モルトケである。モルトケは当時の先端技術「鉄道」と「電信」を活用し、兵隊の大量輸送、敏速な命令伝達でもって、「分散進撃して敵を包囲し一斉攻撃する」という独自の戦術を確立していた。

川上操六、モルトケに学ぶ

薩摩の川上操六は戊辰戦争、西南戦争に従軍したあと、近衛兵第1連隊長となり、17年、20年の二度、欧米諸国の兵制を視察し、とくにドイツでモルトケに弟子入りして、ドイツ陸軍が普仏戦争を制したその戦略、戦術を学んだ。

帰国した川上は陸軍トップの山県有朋を説いて、陸軍大学校を創設し、幕末以来のフランス軍政教育を中止し、ドイツ陸軍教育に切り替えた。幕末以来、軍隊教育に肩入れしてきたフランス側のメンツは丸つぶれである。フランスの激高を受け流しつつも、政府代表・大山巌はドイツに出向き、モルトケから最も優秀な軍略家、戦術家としてメッケル少佐を紹介してもらうことに成功した。

メッケルの熱血指導

これを受けて明治20年来日したメッケルは3年間、陸軍大学校教官となり、若き将校を熱血指導した。陸軍大学校長・児玉源太郎も欠かさず彼の授業を参観したという。後年、日清・日露戦争を制した原動力は、メッケルの薫陶に寄るところが多い。

当時、清は東学党の乱で混乱する李王朝の救援を口実に、朝鮮半島の支配に触手を伸ばしていた。しかしそうなると、我が国は直接清の脅威に向き合わざるを得ず、危機感を抱き半島へ派兵を決断した日本と清との間に、きな臭い匂いが立ち始めていた。

鉄道敷設会議

明治25年の当時、東海道鉄道は開通していたが、西日本とくに山陽道の鉄道敷設が急がれていた。そこで、当時の逓信大臣・黒田清隆は陸軍、逓信両省の代表者をあつめて、路線決定のための鉄道会議を開いた。議長は川上が務めた。

陸軍側からは陸軍大臣・大山巌、陸軍次官・児玉源太郎、参謀次長の川上操六、逓信側からは逓信大臣・黒田清隆、銭道局長官の井上・松本部長である。

冒頭、鉄道建設の権威・松本が全国測量の結果を提示し、海岸線、山間部などの敷設に関する利点、欠点を詳細に説明した。逓信側としては、山間部の敷設は予算額が2倍になり、利用者が少ないため利益も上がらないとして、海岸線敷設を推奨した。

これに対し、この会議議長として、清国との戦争に備えひとり戦略案を練っていた川上が立ち上がり、一朝有事の際には、海岸暴露線では国防を全うできないと強く反論した。

すると、同じ陸軍側の大山が立っておもむろに語り始めた。確かに川上の説明には道理がある。しかし、たとえ某国が我が国を攻撃しようとしても、列強のなかにも我が国の友好国があり、おいそれと攻撃を仕掛けることはできまい。また、海浜には我が国の海軍がいることを忘れてはならない。

そしてなにより大切なことは、鉄道は我が国民が利用するものである。したがって国民の利便を第1に考えた施策を考えるべきであると述べた。自説に賛同してくれると期待していた川上にとって、実に意外な発言であった。

黒田清隆の恫喝

ここで、黒田逓信相が中入りを告げ、いったん食事にしようということになった。はじめは穏やかな雰囲気の会食であったが、次第にアルコールの入った黒田が荒れ始めた。

目が据わってきた黒田は、川上を睨みつけ、「貴様は先刻何と言うた。陸軍だけ都合がよろしければ鉄道のため国が亡びても良いつもりか。貴公も男なら庭に出て俺と眞剣の勝負をしろ」と気色ばんだ。

黒田を筆頭に、大山、川上ともに薩摩人である。黒田は薩摩閥の重鎮で、明治20年には総理大臣も務めている。到底かなわぬとみた川上は、平伏するしかなかった。

結局、黒田の恫喝で山陽線は海岸線を通すことに落ち着いた。

翻って見れば、これほどの国家の大事が、郷里の先輩の一喝で決せられることは、当時の政治決定の危うさを如実に物語っていよう。しかし100年の時を経てみれば、各人の個性がさらけ出されており、興味深いものがある。

花も実もある好漢・黒田

黒田清隆は同郷の西郷隆盛と同じ熱血漢である。戦いにおいては決して敵を殲滅しようとせず、帰順するものには温情をもって臨んだ。敵軍であろうと人物が気に入ると、世話をせずにおれない性分である。

北越戦争では、長岡藩を降伏させたのち河井継之助を登用しようと目論んだり、西郷と相談して、疲弊した米沢、庄内藩を帰順させ、寛大な処分を施した。箱館戦争でも幕臣、榎本武揚に降伏を勧め、彼らの助命に尽力した。

維新後、北海道開拓使長官になると、榎本ら旧幕臣を開拓使に登用し、彼らの貧窮を救った。

征韓論では西郷と袂を分かち、内政を重視し、清国との全面戦争を避け、あくまで外交交渉による解決に拘った。

こうしてみると、花も実もある好漢には違いないが、一方では大雑把で緻密さに欠け、感情の抑制が効きにくい欠点があった。人間としては魅力的だが、国策を預かる身としては問題があった。

すなわち、北海道開拓使官有物払下げ事件をおこしたり、明治21年には内閣総理大臣となって帝国憲法を発布したのち、条約改正案に反対した井上馨の自宅を酒に酔って急襲したりと、行動は破天荒であった。

酒乱の気があるため、醜聞が絶えなかったが、豪放磊落で人情に厚く、大久保利通が倒れた後は、薩摩藩閥の最有力者となった。鉄道会議が開かれたのは、総理大臣を辞任したあと、伊藤博文内閣の逓信大臣を任じていた頃である。

川上操六の深謀遠慮

一方、川上操六は用意周到である。モルトケ、メッケルから、作戦の成功には鉄道輸送力の大小が決定的であると叩き込まれていた川上は、電信の普及、兵の大量輸送とともに食料、弾薬の輸送のための鉄道整備に心を砕いた。

東学党の乱のあと、清国は朝鮮での勢力拡大を続け、もはや清国との戦争は避けがたいと判断した川上は、明治26年自ら韓国、清国を視察し、独自の必勝作戦を練った。

その結果、朝鮮半島での戦いなら、鉄道整備の遅れている清国は七万五千の兵しか送れないこと、対して日本陸軍は鉄道敷設が進めば、海上輸送により二十万の兵と食料、兵器、弾薬を戦場に送れると試算した。

事実、鉄道会議の結果、山陽線は突貫工事で広島まで延び、日清戦争開始までに広島宇品港から大陸への大量輸送が可能となったのである。当時日本の勝利を予想した列強諸国が皆無のなかで、我が国が日清戦争を制したのは、ひとえに川上の深謀遠慮が実を結んだといえる。

市民感覚をもった大山巌

川上の先輩、大山巌はこのとき陸軍大臣である。ついこの前まで幕府と薩長は対立し、維新がなったといっても、当時の日本人に、国民とか国家という意識は薄い。この時期、軍人の彼が川上の説に同調せず、国民目線でものを考えていたところに、彼の値打ちがある。

彼はひとから信用されるという点で、人後に落ちなかった。これは薩摩武士の神髄といわれる「卑怯を嫌い、何事にも死を賭して臨む潔さと、とことん相手を信じきるという決心」が底辺にある。

さらに3年間、ジュネーブに留学してヨーロッパの市民社会を見てきた経験が、彼に平等の精神を植え付け、国民のための鉄道発言に至ったのだとおもわれる。

無私のひと 児玉源太郎

ところで、この鉄道会議に同席していた陸軍次官・児玉源太郎は終始、無言である。問われもしないのに、自ら発言することは慎んでいる。児玉は沈着冷静のひとで、判断力に闌け、上官からの信頼がきわめて厚かった。

戊辰戦争では新政府軍の指揮官、山田顕義に目を掛けられ、西南戦争では身をもって熊本城を死守した。その後、抜群の事務処理能力を買われて、陸軍制度審査会の座長など、陸軍の近代化に尽力した。総理大臣・桂太郎にも気に入られ、陸軍大学校の校長に就任、ドイツから招聘されたメッケル少佐に「いずれ彼は、陸軍の児玉か、児玉の陸軍かと呼ばれることになろう」と言わしめた。

新政府が樹立されたばかりのこの時期、出世を願わぬものはいない。そのなかで、無私の気分をもった児玉の存在は人目を引いた。ゆえに、山縣有朋、桂など陸軍上層から、全幅の信頼を寄せられた。陸軍大臣・大山巌もまた、彼を信じて仕事を任せ、代わりに責任は自分が負うという姿勢を貫いた。

後年、日露間が緊張するなか、対露作戦の立案者、田村が急死。動揺する陸軍内では激論が交わされ、あとが務まるのは児玉以外になしとの結論に達した。この時期、児玉は台湾総督と内務大臣を兼務し、次期首相の呼び声が高かった。

明らかな降格人事であったが、児玉は「国家のためであれば、自分の身は二の次である」と言ってこれを受けた。後年、日露戦争での旅順攻囲戦における陣頭指揮は、国民の喝采を浴び、後世に語り継がれることとなった。

「戦争を始める者は、つねに戦争を終わらせることを念頭に置いておかねばならぬ」、「戦場として荒らした地は、終戦後は以前にも増して住みやすい環境に直す責任がある」。

児玉の言い残した言葉には、じつに重いものがある。

ちなみに、川上は日清戦争のあと3年で他界(享年52歳)、児玉は日露戦争のあと1年で他界(享年54歳)した。国家の命運を任され、激しく燃焼したことが、命を縮めることになったとも言えよう。

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