秀吉、家康が恐れた男・黒田官兵衛(如水)

関ヶ原の戦いのあと、帰国した黒田長政が、父・官兵衛に戦勝報告にやってきた。

「この度の勝利はひとえに甲州殿(長政)のはたらきによるものである。この功に何事をもって報いるべきといって、家康殿は自分の手を3度もとって感謝してくれました」と、長政は得意満面である。

これを聞いた官兵衛は、「家康はお前のどちらの手をとったのか」と尋ね、長政が「右手です」と答えると、「その時お前の左手は何をしていた」と、長政のうかつを責めた。油断している家康の息の根を止める絶好のチャンスを逃がしてしまった、というのである。

事の真偽は不明だが、今もまことしやかに語り継がれる逸話である。いずれにしても、黒田官兵衛を理解するうえで、最もふさわしいエピソードかと思われる。

官兵衛、秀吉の与力となる

もともと官兵衛は播磨の小大名・小寺家の家老であった。優柔不断の小寺政職は、東から迫る信長と西から迫る毛利の狭間で揺れていた。官兵衛は大勢が毛利支持に傾くなか、付くべきは信長と断じ、政職を離れ信長に謁見。以後、秀吉の与力となる。

秀吉は食わせ者である。信長の4男を養子にもらいうけ、信長から頂いた領土はいずれすべて織田家に戻りますといって、信長を篭絡した。

しかし内心は、ポスト信長を想像していたに相違ない。来るべき時がくれば、どう出るか?当然自分にも、チャンスがある。無論それはおくびにも出せぬ秘中の秘であった。

秀吉、千載一遇のチャンス来る

天正10年、信長死すとの知らせが備中高松城に届いたとき、心の底から湧き上がる熱いものがあったろう。ついに来たという興奮のなか、秀吉の肩を叩くものがある。振り返れば、官兵衛であった。

「ご愁嘆のようには相見え申し候えども、御そこ心をば推量仕り候。目出度き事出で来たるよ、御博奕をも遊ばされ、吉野の花も今盛りぞや、この上は光秀と分け目の御合戦なされ、御もっともに候、目出度ぞや、お花見初めと覚申し候」

ここは千載一遇のチャンスである。今こそ、大博打を打つ時である。一刻もはやく、京へ取って返し、光秀を討つべしと背中を押した。

中国大返しの始まり

これに応じて秀吉は、備中・美作・伯耆の3か国割譲と城主宗治の切腹、城兵の助命を条件に和睦をまとめた。

そのあとの、官兵衛の指示は素早く、しかもそつがなかった。世に名高い「中国大返し」は、官兵衛の献策によるものといわれる。

こうして、秀吉を先頭に2万の軍勢が、悪天候の中、1日70キロの道を走破したのである。姫路城にたどり着いた兵の疲労困憊は察するに余りある。

そこで秀吉は、丸一日全軍を休息させるとともに、城内の金銀、米のすべてを将兵に分け与えた。

負ければ2度とここには戻れない、ただし勝てば更なる恩賞にありつける。退路を断って、光秀を討伐する決意を全軍に告げたのである。

こうして体勢を整えた秀吉は、本能寺の変より僅か10日で、200キロの行軍を完了し、その勢いのまま、光秀軍を撃破したのであった。

秀吉、官兵衛を恐れる

機を見るに敏で、戦略において右に出る者がないと言われた黒田官兵衛。

秀吉は天下を取った後、身内でもっとも恐るべきは官兵衛であると公言している。したがって彼に兵力を持たせるのは、虎を野に放つごとしとして、豊前12万石の小大名に閉じ込めた。

官兵衛も秀吉の心中を察している。決して多くを望んではならない。

「狡兎死して走狗烹らる」という。役に立つときは重宝がられるが、必要なくなれば捨てられるという意である。

秀吉は、天下が収まればもはや用済みとして、自分を粛正にかかるだろう。

官兵衛は息をひそめ黙然と過ごしていたが、朝鮮の役での自分の無気力を、三成から秀吉に讒言されたと聞くや、身の危険を感じて直ちに剃髪、出家し、「如水」と名乗った。

関ヶ原の戦いにおける如水

秀吉が世を去ったとき、如水の安堵はいかばかりであったろう。同時に、もう一度自分の出番があると、ほくそ笑んだに違いない。ただし、流れは確実に家康にある。如水の目からみれば、三成と家康では勝負にならない。

如水は形勢を見ながら、背後から息子の長政に指示を出した。長政は如水の助言に従い、細川忠興とともに来るべき関ヶ原に向け、福島正則を説得して家康支持を確実にし、さらに西軍・小早川秀秋と吉川広家の寝返り工作に成功した。

じつは如水は、秀秋が小早川隆景の養子になる際、斡旋の労をとっており、吉川の本家である毛利家とも秀吉の代理で何度も出向き、昵懇の関係であった。

こうして、戦国期最大の戦いは、開戦前にほぼ結果は見えていたといえる。

秀吉亡き後、あとを継ぐのは家康であろう。しかしこの如水にも、まだ僅かなチャンスが残っている。

慶長5年(1600)、会津の上杉景勝に謀反の動きありとの報告に、家康が上杉征伐に大阪を後にすると、待ちかねたように石田三成が毛利輝元を大将に担いで家康打倒に立ち上がった。

豊前中津城で留守番をしている如水は、じっとしておれなくなった。隠居の仮面をかなぐり捨て、もとの軍略家に戻った。

すでに如水は息子・長政を通じて、関ヶ原の戦いの間、家康側に加勢し、九州の西軍拠点を攻める旨、申し送っていた。その意をうけて、井伊直政からは「手に入るところはいくらでもお手に入れられよ」との家康の返答を受け取った。

しかし始末な家康が、こちらの期待するほどの恩賞を出すわけがない。となれば、取れるだけ領土を取って既成事実を作っておくに、しくはない。

なにしろ、関ヶ原の戦いには全国から10万という未曽有の大軍が集結する。
当然、戦いは一進一退で進み、1か月はかかるであろう。その間、九州全土はもぬけの殻に近い。今はまさに九州を手中にできる、またとないチャンスである。

ならば一挙に九州を制圧したのち、第3勢力として東上し、場合によっては家康と対峙するのも面白いではないか。

こうして家康の言質を得た如水は、満を持して作戦を開始した。

とはいえ、中津城には留守居として僅か200名の兵しか残っていない。そこで如水は思い切った手を打った。彼は手持ちの資金をすべて投げ出して、農民や牢人を募り、2か月ほどで9000人の軍隊をつくりあげた。

こうして、謹慎中だった加藤清正と連携し、2か月足らずで、九州北部を平定してしまった。驚いたのは家康である。

あまりの如水の快進撃に不安になった家康は、ただちに戦闘中止を命令するとともに、上洛を促す催促をしたのであった。

家康は大阪へ出向いた如水に、何の約束もなかったかのように九州の話題を避け、上方に領地を与えるから、今後も軍事に参与するよう促した。

しかし、如水もこれ以上のふるまいは息子の命運にかかわるとして、勲功恩賞を固辞し、文字通り一介の隠居老人となった。

そのかわり、家康は関ヶ原での長政の武功をたたえ、福岡52万石の大大名に抜擢した。

秀吉が恐れたと同様、如水は家康の心胆をも寒からしめたのである。

如水にとって、返す返すも残念であったのは、あの関ケ原決戦がわずか1日で終わってしまったことであった。

やれることはやったと満足した如水は、以後、息子・長政の領地に戻り、悠々自適の余生を送ったという。享年59であった。

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