ガンと闘うひとびと

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医師になってはじめて受け持った患者さんは、大学教授であった。

つい1ヶ月前までは学生身分で、教授と名のつく先生方にひたすら恭順の意を唱えていたわけだから、突然そういう立場の方に“先生”などと言われると、面食らってしまったのは言うまでもない。

しかも病気は肺ガンであった。不用意に回診に行くと、病状説明に苦慮するはめとなった。とにかく、質問の多様で厳しいこと。再度、医師国家試験を受けているようなものだった。

48年のその頃、患者にはガンの告知をしてはならないという不文律があった。当時ガンは不治の病とされ、ガン告知は死刑宣告と同じ重みがあったのだ。

だが、こんな偉い先生にガンでないなどど、最期まで嘘をつきおおせるか?という疑問があった。幸い、教授のほうで、それとなく察知していただいた。こんな若造をいじめても仕方あるまいと思ってくれたのだろう。

私は薄氷を踏む思いで、教授の最期を看取った。

医師になって2年目の春、高知の県病院へ赴任した。着任してほどなく、結婚を間近にひかえた可愛い子がのどの違和感で来院した。聞けば、2週後には新婚旅行だという。

甲状腺が腫れており、まさかの甲状腺ガンであった。

その告知は目前の結婚式をぶち壊し、彼女の自殺まで予測できるほど、おそろしいものだった。いかに事実を受け入れてもらうか考えあぐねた末、とても自分の能力では無理と観念し、後をベテラン外科医にお願いした。

私自身は修羅場を見ずにすんだが、どのような告知をされたのであろうか。恐らくガン告知をせずに彼女を納得させることは、不可能であったろう。

ガン専門病院へ移ったたため、消息は得られずじまいであったが、その後どんな人生を送ったのであろうか。いまだに気に懸かる苦い思い出である。

大学で研究生活を終え、市中病院へ赴任したある日のこと。

ヒロミさんという30半ばのやさ男が胃カメラに来院し、胃ガンの疑いで組織検査をおこなった。1週間後、結果伺いに受診した本人を、病院の受付は女性の名前と誤認し、患者さんのご主人が来られたと連絡した。

それを受けて、わたしはご本人に、“奥さんはガンですから、早急の手術が必要です。”と説明した。

昭和56年当時でも、ガン告知は本人にしてはならず、家族にのみ告げるのを是としていた。まだなお、ガン告知は死刑宣告に近い響きがあったのだ。

この思いもよらぬ告知が私にとって初のガン告知となった。告知された側の動揺は尋常でなかったはずである。

しかし、その時のヒロミさん、少しも慌てず“実はわたしがヒロミなんですけど”と切り出され、私は肝をつぶした。驚いたのはそれだけではない。入院後も、平然と新聞を読んだり、散歩したりと窮するところがない。病室を訪ねても食欲は十分だという。

死刑告知された人の動揺を憶測しているわたしにとって、予想だにできぬ現実であった。幸い手術も大過なく終わり社会復帰を果たされたが、解脱した人とはこのような人物かと思わせるほど、飄々とした生き様であった。

この10年間、ガンの治療成績は飛躍的に改善し、医学界は一転して、ガン告知を是認する姿勢をとるようになった。

8年前のことである。年配の男性が食欲の低下で受診された。胃の検査でガンと判明し、ガン告知のうえ手術をお勧めした。

すると、わたしはもう十分生きたので、事実さえ聞ければもうそれで結構ですという。

家族もみな先に逝き、今は天涯孤独の身であって、いまさら手術をうけて延命をはかることは潔しとしない。自然に命の尽きるのを待ちますと、淡々と語って帰っていった。

古武士の風情があった。

その後音信なく、どのような経過を辿ったか知る由もないが、世にはこのように底の計り知れない人物がいることを、思い知った。

前述のふたりに共通しているのは、生死に対する執着が極めて希薄で、ガンという事実を淡々と受け容れていることである。凡夫とは視点の異なるところを視ているすがたであった。

到底自分には、たどりつけぬ境地であると観念した次第である。

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