名人越後


昨日の日本剣道選手権は見ごたえがあった。ひとえに間合いの勝負と見えた。

優勝者の原田選手は、十分に間合いを詰めて相手を自由に動かせず、虎視眈々とスキを窺っていた。

5分とはいえ、勝負は一瞬である。準決勝の”面”も、決勝の”籠手”も目に留まらぬ速さであった。

これをスポーツといえば言えなくもない。それはともかく、もとは殺人剣である。少なくとも江戸以前はそうであった。

実際、大阪夏の陣のあと各藩大名は、まだ定まらぬ戦国の風に危機感を捨て切れず、士気を保つため武芸試合を奨励した。

当然、実戦で鍛えた武士が多かった。斬るか斬られるかである。なかには、鉄の籠手をつけて相手の剣を受け止め、一方の手で面に打ち込む者もいたらしい。

このため、籠手をはずした手のひらには無数の刀傷があったという。とてもスポーツなどという生易しいものではない。

江戸初期、加賀藩前田家のはなしである。

第3代加賀藩主・前田利光(のち利常)は若年より才気溢るる人物との聞こえが高かった。

当時の前田家剣術指南役・富田重政(とだしげまさ)は、”名人越後”と謳われた無敵の達人である。

あるとき、槍術の達人との立ち合いに際し、間合いを詰めて、木太刀を相手の槍先につけ、そのまま手元まで押さえ込んだ。

米糊づけ(そくいづけ)という。相手は一瞬にして身動き出来なくなったという。

ある日、藩主利光は彼を呼び寄せ、

「無刀取りを心得るというが、これがとれるか?」

と、抜刀した刀身を突きつけた。かしこまった彼は、おもむろに、

「本法は家の秘法にて、後ろの戸の隙間より覗いているものがおりますゆえにお人払いを。」

と申し上げた。利光が振り返った隙に、彼はさっと進み寄り、藩主の刀を持つ拳を押さえていった。

「わが家の無刀取りはかくのごとくでございます。」

利光は大笑した。名人越後の名は江戸まで聞こえ、将軍家光は柳生但馬との御前試合を命じた。

しかし、どちらかが面目を失い、名に傷つくことを危惧したため、家光自身、ほどなくこの企画の中止を宣言した。

今日の原田選手のするどい間合いの詰めに、名人越後を思い出した次第である。

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