白鵬の目


最後の仕切りを終え、塩を手にした白鵬がちらりと顔を上げた。一瞬だったが、宙をみつめる彼の目は頼り無げであった。自信のない、なにかにすがりたいような目だった。

しかし、立会いに千代大海の張り手をもらったあとは、目覚めたかのごとく生き返った。最後は地力の差が出たようだ。

一方、優勝を決められた後、土俵に上がった朝青龍の目はうつろだった。最後の仕切りのあと、彼は塩を手にしたまましばし立ち止まった。それは気になる長さだった。

おもむろに宙を仰いだ彼の目は万感の思いを伝えていた。かつて、自ら優勝を決め、横綱昇進を決めた日のことを思い起こしているように見えた。次の時代を担う役者が現れ、もはや自分の出る幕がなくなったような寂しさにもみえた。

危惧したとおり勝負はあっけなくついた。持ち前のねばりがなく彼は土俵に落ちた。勝負の世界は過酷である。

この一番で一生が決まるということがしばしばある。ワンチャンスをものにする力は実力だけではむつかしく、運の助けも借りねばならないようだ。

実力がありながら、ここ一番となると挫折してしまうひとは少なくない。両横綱がモンゴル人となり、日本人力士がその配下につく。

こうなると大相撲はついにモンゴル相撲になったかと嘆く向きもあるだろう。しかし、テニスもゴルフもオープンだからこそ、日本人も海外で活躍できる。それが今日の人気の源である。

相撲だってヨーロッパ人もアラブ人も参加してこそ、明日の興隆が期待できるというものだろう。

それにしても、裸に帯の如きものをつけて公衆の面前でぶつかりあうスポーツなど、世界が受け入れるだろうかとは、多くの日本人が危惧するところだろう。

明治以後、ちょん髷も着物も捨て去って、洋服に着替えたにもかかわらず、信長の時代から相撲風俗に変化がないのは意外でもある。

かつて自分も、少年相撲大会でまわし姿を人前に晒すのには抵抗があった。上品を自負するフランスでも、シラク氏は大いに相撲を気に入ったようだが、サルコジ氏は一転、下品であると一蹴した。温泉に入るのにも水着をつける国々の人たちは、この出で立ちを容易に納得はするまい。

こうなると、短パンかズボンをはかない限り、世界はうんといわないようにも思う。サッカーやゴルフに比べ、相撲の未来は混沌としているといわざるを得ない。

相撲協会も多様化するスポーツ世界での生き残りを賭け、苦労の尽きぬことだ。

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