荘子の自由論

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老子が逝って100年ののち(紀元前300年頃)、荘子は殷のあとにできた宋の国に生を享けた。

老荘と一括りにして扱われるが、無論両者に面識はない。世は群雄割拠の戦国時代であり、殷人の移住した弱小国・宋は、周辺国から軽視されること甚だしかったという。

史記によれば、荘子は若いころ漆園の管理人のような仕事をしていたらしい。

周囲からは無類の知識人と評価されたようだが、世に出て学者仲間と論争するのを嫌い、また宮仕えして束縛されることも厭い、終生田舎に引きこもって、隠遁生活を送ったといわれる。

偶然、孟子と同世代だが、戦国期だけに儒家のほか、墨家(平等主義)、兵家(富国強兵)、名家(論理学)、陰陽家(宇宙論)など、諸子百家がこぞって国家統治論を展開した。

かつて老子は「小国募民」という小規模の村落共同体を理想郷としたが、荘子には国家のありようについて論ずる気はない。彼は世間の権力や名誉から遠ざかり、それに執着するひとびとを諧謔・哄笑した。

逍遥遊(超俗自由主義)

まずは「逍遥遊」(超俗自由主義)についてである。

彼は、冒頭から巨鳥や巨木、大魚のはなしを持ち出して、ひとびとを驚かせ、まず世間の常識を捨てさせるところから始める。

つまり、自由な境地で逍遥遊を楽しむためには、世間の常識や価値観に振り回されてはならないという意図である(超俗主義)。

また彼は老子の「無為自然」に共感し、ひとのあるべき姿は、自然体で作為的なことをせず、囚われのない自由な境地に身を置くことであるとした。(自由主義)

ときに清浄恬淡(欲望や執着心を捨て去って生きる)とも、柔弱謙下(水のように柔軟で謙虚に他人と争わない)ともいう。

そのためには、「感じてしかる後に応じ、迫られてしかる後に動き、やむを得ずしてしかる後に起ち、知と故とを去りて、天の理にしたがう」生き方が理想である。

つまり、天地の自然に身をゆだね、私利私欲を捨て去って、周りの状況に抗わず、必要に迫られてやむを得ず行動するのが最も好ましい姿であるとした。

荘子が求めるのは、自分のことはさておき、相手の話をじっくり聞くことのできる人物である。

すなわち、「究極の受身」といわれる荘子のこの思想は、後の禅宗における「無我」へとつながっていくのである。

これが荘子の「超俗自由主義」であり、「逍遥遊」といわれるものである。

万物斉同

もうひとつ、荘子が力説したのが、「万物斉同」である。

老子の唱えた「道」(タオ)とは、自然のすべてを産み出し、宇宙の秩序を形作っている「大いなるもの」であって、どこにでもあるが、かといって、とらえどころのないものである。

荘子はその道(タオ)という概念を発展させ、独自の論理を展開していく。

彼によれば、道(タオ)の世界を言葉などという極めて限界ある道具で表現すること自体、無理な話である。

また、善悪、美醜、是非、可不可など、ひとの認識は相対的なものであって、見方によっていかようにも変わりうる。

したがって、道(タオ)という絶対無二の見地から見れば、この世に対立や差別はなくなり、「一見対立してみえるものでも、よく吟味してみれば、似たようなものだ」という認識に至るというのである。

それを説明するのに、有名な「胡蝶の夢」や「朝三暮四」の話しを引き合いに出している。

「胡蝶の夢」とは、蝶になって飛翔する夢から覚めたのだが、果たして夢を見ていたのは自分なのか、蝶なのかという話である。

荘子はそれはどちらでもよい問題で、真偽のほどを論ずるよりも、どちらも肯定して受け容れればよいという。

また、「朝三暮四」とは、猿回しが猿に団栗を「朝は3つで夜は4つにする」と言うと、猿が怒った。「それなら朝は4つで夜を3つにしよう」というと猿は機嫌を直して喜んだというのだが、なあに我々人間だって、似たり寄ったりのことで一喜一憂しているという。

このように天のごとき高所から眺めれば、すべてのものには大した違いなどないという思想を「万物斉同」と呼んだ。

老子の「道」「無為自然」は荘子に受け継がれ、「逍遥遊」(超俗自由主義)、「万物斉同」とともに、老荘思想として、後世広く庶民に浸透した。

この老荘思想が中国全土を席巻したのは、魏晋南北朝といわれる3世紀から6世紀にかけてである。

この時代、漢人は北方民族の支配下に置かれたため、政治に無関心となった漢人知識階級の鬱屈のはけ口として、老荘思想が取りいれられ、詩、書、音楽などの文化が一挙に花開いた(六朝文化)。

また同じ理由で、仏教も爆発的に広がった。ただ仏教の場合、サンスクリットで書かれた仏典を中国語に翻訳する必要がある。

この翻訳作業に、老子、荘子、中庸などに記された言葉が頻用されたため、中国仏教は多分に老荘的となり、6世紀に至って、ついに中国産の仏教「禅宗」が誕生した。

その成り立ちからして、禅宗は多分に荘子の味付けがされているといわれる。

たとえば、荘子の坐忘は坐禅による見性成仏につながり、さらに、真理を表現するのに言葉はきわめて不十分(禅語の不立文字にあたる)で、真理に至るには言葉や思考よりも直観が重要である(禅語の以心伝心にあたる)などは極めて近似している。

また、かつて孔子は、「往くものは諌む(いさむ)べからず。来るものは猶負うべし」といい、過去のことは仕方がないとしても、これからのことは心掛け次第でいかようにもなると説いた。

これに対し荘子は、戦乱に明け暮れる今日、「来世は待つべからず。

往世は負うべからざるなり」といい、明日のことが予測できない今、過去にこだわったり未来に期待するのでなく、今のことだけを考えて行動せよと反論した。

これがのちに禅宗にとりいれられ、「前後裁断せよ」という禅語となった。過去も未来も忘れ、現在だけに思いを致せば、そこに新たな知恵が沸いてくるという意である。

荘子は8世紀にいたり、唐の玄宗皇帝から“南華真人”の号を与えられて神格化された。

同時に、彼の書は道教の聖典となり、老子とともに道教の始祖と並び称されることとなった。

つねに日の当たる場所から距離を置き、権力や名誉をあざ笑った男が、かくもやんごとなき地位に祭り上げられるとは。

泉下の彼の自由を奪われ居心地悪きこと、同情に耐えない。

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