申維翰(しんゆはん)と雨森芳洲(あめのもり)の友情

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そもそも江戸時代は鎖国である。長崎の出島を除いて、200年以上外国人を見かけることのない時代である。

それにもかかわらず我が国では、漢文を学ばなければ学問はできなかった。話せなくてもよいが読めねばならなかった。

1607年、徳川将軍家は対馬藩の仲介により朝鮮通信使の招聘に成功した。

とはいっても朝鮮側の本心は穏やかでない。わずか10年前には、秀吉の侵略により国土荒廃の憂き目にあっている。李氏朝鮮にとって日本は怨嗟の国であって、国交を回復する気など露ほどもないのが実情である。

そこをなんとかと、機嫌を取って交渉を再開できたのは、ひとえに対馬藩の尽力による。

発足まもない幕府にとっては、朝鮮を従えているように見せかけ、諸藩に幕威を誇示したい思惑がある。

それに比べると、仲介している対馬藩の事情はかなり深刻である。耕作地が乏しく、稲作だけでは到底やっていけない。このため幕府から唯一、朝鮮国との貿易が許された身である。これがなんとか藩財政を支えている。

つまり、朝鮮との友誼は死活問題なのである。

朝鮮との友誼

対馬藩は友好維持のため決死の覚悟で国書を偽造し、朝鮮側使者に対峙した。彼らも敢えてそれを黙認したまま、対馬藩に応じたという。

朝鮮側がしぶしぶ応じた背景には、北方から女真族の脅威が迫ってきたため、日本と良好な関係を保つ必要に迫られたことと、日本の国情視察という目的がある。

とりわけ10年前には通信使を派遣したにもかかわらず、秀吉の心底を見抜けず、一気に平壌まで侵攻された苦い経験がある。

さらには、日本に連れ去られた儒家、陶工など1万人にも及ぶ捕虜を、なんとか取り返さなければならない。(こののち6~7000人の捕虜の召還に成功した)

したがって、江戸時代を通じて両国のスタンスは、幕府側が働きかけて朝鮮側がこれに応じるという関係であり、決して警戒の念を緩めてはいない。

こうして国交が再開し、幕府は通信使を勅使以上にもてなす配慮をしめした。

彼らは釜山から対馬に寄港したのち、下関から大阪まで瀬戸内海を航行し、大坂からは行列をなして、京を通り江戸に向かうのである。

派遣団は正使・副使・書状官の3使に輸送係、医師、通訳、軍官、楽隊に加え、旗手、銃手、料理人、馬術師、馬の世話係、贈物係、旅行用品係、画家、水夫など400名にのぼる。これに対馬藩の役人1500名が警護につき、往復8か月以上をかけて江戸を往復するのである。

この間、派遣団が通過する街道沿いの農民には労役が課せられたため、不満も噴出したが、10数年に一度しか外国人に会えない庶民にとって、通信使の行列見物は大きな楽しみであった。とくに異国情緒あふれる小童の踊りに目を輝かし、楽隊の演奏に胸躍らせたのである。

また、中国文化を身に着けた通信使たちは、学問や風雅を求める人々にとって憧れの的であり、彼らは先を争い通信使の宿泊所に押しかけた。

漢詩のやり取りや自作の詩の講評を求める者、書画の揮毫を請うもの、朝鮮事情について尋ねるものなど、引きも切らぬ訪問に、通信使たちは睡眠すらままならなかったという。

しかし一方で、派遣団の多くは日本人を倭人と呼んで蔑視する傾向にあり、日本の文人にすら非礼を働くものがあったという。

さらに派遣団のなかには、警護に当たる対馬藩士を軽視して、無理難題を吹っ掛け暴力をふるったり、宿の壁に唾を吐く、階段で小用をたす、門や柱を破損するなど乱行するものがおり、必ずしも尊敬を集めたとは言い難い。

しかし尊大ともいえる彼らも、殷賑をきわめる京都、大阪、江戸の街並みや貨幣経済の興隆には驚きを隠せず、中世に停頓したまま、物々交換に明け暮れる自国の沈滞を嘆いている。

文官、申維翰(しんゆはん)

ところで、申維翰(しんゆはん)のことである。彼は朝鮮王朝後期の文官である。

1719年、徳川吉宗の将軍就任祝いに編成された第9回通信使派遣の書記官に選ばれ、来日した。正使、副使、従事官、堂上通詞、上通詞に次ぐ地位で、決して上位ではない。

6年前、科挙に合格し、その文才が朝廷内でも一目置かれる存在にもかかわらず出世が遅れたのは、出自が嫡出子でなかったという一点につきるらしい。

李朝時代、それは才能以上に決定的な出世の条件であった。鬱屈したものを抱えての奉職である。

彼の主な仕事は公文書の作成や日本の文人との交流である。またそれに加え、日本の軍事力について詳細を探るという任務も帯びていたようである。(これに関しては後日、幕府に朝鮮侵略の意図はないと結論づけている。)

帰国後、日本の自然,世相,文物,風俗などの観察記と道中日記をまとめ、「海游録」を記した。じつに、これが彼の名を後世に残すこととなった。

今日、500年におよぶ李朝時代を通じ、紀行文学の白眉とされる。

中国に準じ朝鮮でも、役人の採用試験は科挙によったため、漢字に精通することが必須である。したがって申維翰の漢文・漢詩の実力は日本人の比でない。

このため、彼は日本人を「文をもって人を用いず、文をもって公事をなさない」と断じ、漢字かな交じり文でしか公文書や書簡を記せない日本を蔑視すること甚だしい。

しかしその一方で、自国のハングル文字が日本のかな書き文とさほど変わらないというジレンマに苦悩していた。

彼の朱子学によれば、士大夫が執り行うべき政治を、日本では武士が取り仕切っているのは理不尽である。しかも、役職は科挙のごとき選抜制でなく、すべて世襲制だというではないか。

申維翰に言わせれば、中華文明の華たる明が滅亡し、異民族である清が取って代ったことで、わが朝鮮こそが正統な中華文明の継承者である(小中華観)という自負心がある。

しかし実際、饗応の席上や滞在の旅館で日本の文人たちと交流してみると、彼らの漢詩、漢文に対する知識や理解力は、予想を遥かに超えているのに驚かされた。

雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)もそのうちのひとりである。

雨森芳洲(あめのもりほうしゅう)

丁度、申維翰が朝鮮通信使の一員として来日した時、対馬藩・真文役として彼と一緒に江戸に随行した。真文とは漢文の意である。

雨森芳洲は18歳で江戸の木下順庵門下に入り、新井白石とともに「文は芳洲、詩は白石」といわれるほど、秀才の名をほしいままにした。

21歳のとき、木下順庵の推薦で、対馬藩の儒者に任命された。

対馬藩などと侮ってはならない。対馬藩は幕府より朝鮮外交を一任された重要拠点である。それだけに、朝鮮政府との外交および幕府との折衝、外交文書の解読・起草、外国船の漂着に筆談もこなせる優秀な学者が切望されていたのである。

雨森芳洲はその後、長崎で中国語を学び、26歳で対馬に赴任。朝鮮語もマスターし、トリリンガルとして以後約40年間、藩主の懐刀として、数々の重要任務を任された。

鎖国の時代にあって、稀有な国際感覚をもち、外交の基本理念は「互いに欺かず争わず、真実を以て交わる」とし、「誠信」を旨とした。

したがって、1711年(第8回)と1719年(第9回)の通信使訪日にあたって、対馬から江戸の往復に随行し、朝鮮側からもっとも頼りにされた篤実の人である。

1719年、通信使一行が対馬に到着した際、雨森芳洲(52歳)と申維翰(38歳)は会いまみえた。

朱子学名分論に忠実な申維翰と幕府の慣習に忠実な芳洲のあいだには、容易に埋め尽くせない溝がある。

このため、江戸往復のあいだ、両者のあいだで丁々発止のやり取りがあったのは否めない。

たとえば、申維翰が対馬藩主と面会するにあたり、どちらが地位が上かという点で芳洲と論争になり、対馬藩主は朝鮮から糧食を給されているのだから、朝鮮の一地方長官であり、中央政府の高官である自分とは対等であると言い張り、会見は中止になった。

しかしその後、旅を通じてふたりは実によく語り合い、心を許す昵懇の仲となった。

そして長旅のあと申維翰が日本を去る際、芳洲は「国に帰って朝廷に登り、栄聞を休暢せられんことを」と語って惜別の涙を流したと、「海游録」にある。

12回の朝鮮通信使訪日のなかで、申維翰ほど江戸時代の文人に記憶された朝鮮人は少ないといわれる。

節度ある対応による好印象のためか、訪日中揮毫した見事な漢詩のためか、帰国後記した「海游録」が日本でも読まれたものか。

ともかく、30年後の第10回通信使訪日の際には、申維翰の消息を訪ねる日本人が随分多かったといわれる。

ただ彼は出自のゆえに、大いに出世を果たすことはなかった。帰国後は国家の祭祀や諡号を管轄する官庁に勤め、従4品に留まったといわれる。

ただ、申維翰の『海游録』は朝鮮の人々に愛読され、それを通して雨森芳洲の人となりも広く伝搬した。

ちなみに1990年、韓国のノ・テウ大統領が国賓として訪日の際、宮中晩餐会の挨拶で、雨森芳洲の「誠信」に学ぼうと言及したことは、つとに知られる。

雨森芳洲はその後、対朝鮮外交の心得書「交隣提醒(こうりんていせい)」を記し、88歳で死亡するまで朝鮮との善隣友好に尽力した。

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