長谷川等伯の「松林図屏風」

戦国時代の京

戦国時代の京は、応仁の乱のあと荒廃がすすみ、人心もすさんでいる。

京にいた文人墨客は地方に逃れ、山口の大内、越前の朝倉、能登の畠山などの有力大名を頼ったため、中央の文化が地方で花開くこととなった。かくして能登の七尾城下にも京風の「畠山文化」が花開いた。能登の守護・畠山氏は室町幕府三管領の一角を担う名門である。

等伯はそうした桃山時代に畠山文化の恩恵をうけたひとりである。桃山とは、豊臣家滅亡で秀吉の隠居所・伏見城が破壊されたのち、城址に植えられた桃の木に由来する。

そして信長、秀吉による天下統一で、国中を自由に行き来できるようになると、地方の文化を背負った者どもが再度、京へ流入した。

等伯には能登の田舎者という意識はない。いずれは京に出て、自分の画才がどこまで通用するか試したいと、はやる気持ちを抑えている。

法華信者・等伯

30歳を過ぎた等伯は、両親の死を機に家族を連れて上洛。本法寺の庇護下に入り、描いた絵を売りながら生計を立てた。

入京当初、等伯は高名な狩野永徳の門をたたいたが、狩野家以外の者は道具としてしか扱われないことを知り、ほどなく狩野派を去って独立した。

当然、狩野派からは、技術を盗んで派閥を立ち上げるなど、風上にも置けぬと糾弾された。このため、寺院の壁画制作を請け負おうとしても、狩野派に阻止され、交渉はことごとく失敗した。無念の日々が少なからず続いたようである。

ただ、彼は熱心な法華信者であった。ひとが煩悩から抜け出せない存在である以上、自分が受難をうけるのは当然であり、目の前の苦難をあるがままに受容し、「南無妙法蓮華経」を唱えれば、必ず救われると信じている。

そこで等伯は堺へ出向き、千利休らの茶人と知己を得、南宋や元の絵画知識を吸収しながら、独自の画風を打ち立てた。

同時に堺の商人の注文に応じて絵画を描き、高い評価を得た。彼が京で狩野派に立ち向かうには、秀吉の股肱となった利休の推挙に頼むところが多かったと思われる。

等伯、大博打をうつ

狩野派に付け入るスキを与えられず、先行きの見えない等伯は、意を決して大博打をうつことにした。

あるとき、大徳寺三玄院の開山・春屋宗園の留守に寺院内へ潜入。無断で三玄院に上がり込み、襖(ふすま)に「山水図」を一気に描き上げたのである。ほんの一瞬の出来事で、誰ひとり止めに入る猶予はなかった。

日頃宗園は、禅寺に襖絵など修業の邪魔になるだけと反対していただけに、いかなる厳罰をうけるか、等伯は身の細る思いであった。

ところが、この賭けは吉と出た。外出から戻った宗園が、等伯の水墨画に思わず見入ってしまったのである。

襖は雲母刷りの桐花紋がついた唐紙である。その桐花紋を牡丹雪に見立て、降りしきる雪景色のなかに、ぼんやり浮かび上がる松林と奥行きのある山水図が淡い墨一色で描かれている。

臨済宗の公案にうってつけではと、宗園は思ったかもしれない。

これをきっかけに、等伯は多くの寺院から絵の依頼を受けるようになり、さらに天正18年(1590年)の狩野永徳の急死により、宮中や豊臣家から絵画制作の依頼が急増し、仕事は順風満帆となった。

しかし、幸運もそう長くは続かなかった。翌年、等伯と友諠を結んでいた利休が、秀吉の命で自刃したのである。 等伯の嘆息はいかばかりであったろう。

さらに1年後には、追い打ちをかけるように、息子の久蔵が26歳の若さで急死するのである。

息子・久蔵の死と松林図屏風

等伯の代表作といわれる国宝「松林図屏風」。

一見すると、下絵ではないかと思わせるほどに素っ気ない水墨画である。十二分に省略を効かせ、墨の濃淡だけで奥行きと湿り気を表している。

50歳を超え、才能豊かな後継者に恵まれた等伯はそろそろ引退を意識し、後のことに思いを巡らせていた時期である。

そこへ突然、息子の死の一報が入る。通報をうけた等伯の悲嘆は推し量るべくもない。法華経にすがろうとも、癒しがたい失意の日々が続いたに違いない。

この悄然とした暗闇のなかで筆を執ったのが、水墨画「松林図屏風」である。

霧にけぶるなか、うっすらと現れては消えていく松林。

そこから伝わってくるものは、先の見えない茫洋とした世界、不確かな未来、侘しさ。

はたして松林の奥を訪ねていけば、彼岸に至るのであろうか。

そして、それは諦観には程遠い心境を吐露した、息子への鎮魂歌ではなかったか。

老境の等伯

その後も数年の間、等伯は水墨画を描きつづけている。心情を表出するには、モノトーンの水墨画にならざるを得なかったであろう。

久蔵の死より7年、等伯は、弟子たち一門をあげて、縦10m、横6mにもなる巨大な「大涅槃図」を描き上げた。そしてそこに、日蓮聖人や世話になった本法寺の住職とともに、自分の祖先や久蔵の供養名を記した。

涅槃図に描かれた釈迦の死を悼む弟子や動物たちは、先立った彼らへ哀悼をささげる自らの姿ではなかったか。

息子の死より15年をへて、67歳の等伯は宮中より法眼の位を与えられ、絵師として名実ともに第一人者となった。

さらには本法寺の大檀越となり、町衆として京における有力者のひとりとなった。

しかし、すでに天下は秀吉から家康のものとなっている。

長谷川家の将来を考えると、今後、家康抜きに一門の繁栄はない。どうしても自分の目が黒いうちに徳川家との関りを深めておきたい。

既に古希を越えていた等伯は、老体に鞭打ち、家康に会うべく次男の宋宅(そうたく)と共に、江戸へ旅立った。

しかし旅の途中で病を得、無念にも江戸に到着するや、わずか2日で息を引き取った。享年72であった。

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