ハイデッカーの実存主義

「良心は常に、沈黙という形で語る」

「単純なものこそ、変わらないもの、偉大なるものの謎を宿している」

「限られた時間でより多くのことを知り得ていくには、複雑なことを複雑に学んでいくより、シンプルの先にあるものを学ぶことが必要だ。」

味わいのあるこの箴言を語るのは、20世紀最大の哲学者といわれるハイデッカーである。

ハイデッカーの実存主義

ハイデッカーは今までの西洋哲学が存在の意味を深く探究せず、存在は忘却されてきたとして、新たな存在論を提示した。

すなわち、「存在」とはそれが単に目の前にあることではなく、そのものにふさわしい態度を取ることによって、初めて存在しているといえる。つまりコップがそこにあるというだけでは意味がない。コップの用を足してはじめて、コップは存在しているといえると言明した。

ひともまた同様である。

存在の意味は時間にある

また、過去に世界とどう関わったかで現在があり、今後世界とどう関わるかで未来が決まるのであり、自らの意志で未来を切り開いていくべきであるとした。

このように、哲学界にはじめて「時間」という概念を提示し、人はいつか必ず死が訪れるということを思い知らなければ、生きているということを実感することはできない。

免れ得ない死に向かっていることを肝に銘じて現実を受けとめ、自ら決断して己の行く方向を決めよと提言した。

これがハイデッカーの実存主義であり、神は死んだと言って、自己の確立を叫んだニーチェの思想を引き継いでいる。

つまるところ、実存主義は見失った自分を取り戻せという思想である。

そして現実をどう受け止めるかについては、あらゆる存在を規定する私たち自身の存在(ありかた)を現象学的に分析する必要があるとした。

現象学的に分析すると言うのは、先入観や思い込みを取り払い、対象について根本的に考えるということである。

この現象学的な分析法はハイデッカーの師・フッサールの提唱した手法である。

フッサールの現象学

ところで、我が国ではイザナギとイザナミの神によって国生みがされたとあり、キリスト教世界では神により天地創造がされたとある。

どちらも物語である以上、証明することは不可能であり、どちらが正しいかというのも意味のないことである。

正しいか否かを論じるより、なぜそう信じるようになったかについて話し合おう、というのがフッサールの立ち位置である。

たとえ親子、夫婦、親友といえども、考えがまったく一致することはない。しかしその不一致は不一致として、その意見の根拠について話し合い、ここまでは全員が納得できるという部分を取り出し、そこを基点に妥当な着地点を探っていくのが大切だとした。

かつてヨーロッパではカトリックとプロテスタントが対立し、どちらが正当であるかについて長らく論争、戦争を繰り返した。しかしあるとき、信仰の是非を伏せて,互いに市民として認め合おうと決めたことで平和が訪れたのである。

お互いに相手の自由を承認し合う,これが市民社会の原理である。

日頃、私たちはそれぞれ独自の色眼鏡でもって、周りの世界をながめている。つまりその人特有の偏見や思い込みがあるため、同じものをみても捉え方は決して同じでない。

そこで、現象をありのままに捉えるためには、普段なんとなく信じられていることでも、無批判に受け入れるのではなく、先入観や思い込みを取り払った自分の目で、じっくり観察して判断すべきだと提言した。

こうしてじっくり観察すると、今まで見えてなかったものがいくつも発見され、新鮮な驚きを感じるようになる。そこで頭にひらめいた意味を考える(直観)ことにより、見ているものの本質に迫ることが可能となる。

つまりフッサールは、外に目を向けるのではなく、自らの内面に目を向けよというのである。彼は「なぜ生きているのか」、「どう生きたらいいのか」という問いを投げかけ、ハイデッカーやサルトルに多大な影響を及ぼした。

ハイデッカーの後半生

ハイデッカーが他界(87歳)したのは、自分が医師になって間もない昭和51年であった。

彼は代表作「存在と時間」のなかで、死を意識した生き方を強調したが、かつて我が国には、いかに見事に散るかと考えながら日々を過ごした幕末の武士や特攻隊員がいた。

迫りくる死を全身に感じながら日を送る姿は、ハイデッカーの求める世界を髣髴とさせた。

かつて第1次世界大戦で、人類は経験したことのない1600万人に及ぶ大量死を経験した。直接かかわりのなかったアジアでは衝撃は少なかったが、ヨーロッパでは科学万能と信じていた世界が崩壊し、不安が蔓延して人々は無気力になった。

その中で、人々を強力に牽引していくファシズムやナチズムが登場したのは当然だと、ハイデッカーは読み解いた。

その結果、ナチズムに反対したフッサールやヤスパースは教授資格を剥奪され、教職を追われた。一方で、フライブルグ大学の学長であったハイデッカーはナチスに迎合し、反ユダヤ主義をとった。これが戦後、保身に走ったと世間の批判を浴びることになる。

厳しい非難に晒されながらも、ハイデッカーはグレーバー大司教やペルー大使館秘書官、フライブルク大学評議会などの尽力で、なんとか教職に復帰を果たした。なかでも、窮地のハイデッカーを救ったのは、かつての恋人ハンナアーレントであったといわれる。

教え子である彼女と不倫関係にあったハイデッカーは、一方的に彼女との関係を解消し、ユダヤ人であった彼女は傷心のまま、ナチスの追求を逃れアメリカに亡命した。

その後ハンナはナチス支持のハイデッカーを非難していたが、終戦後、再会したハンナは彼の謝罪を受け入れ、彼の著作の英訳にあたりナチスとの関係を薄めるよう協力し、海外からの非難を最小限に留めるのに尽力した。

おかげでハイデッカーは、なんとか世界的評価を回復することができたという。

戦後、ハイデッカーは「道とかタオという語のうちには、思惟しつつ言うことの秘中の秘が潜んでいるのではないだろうか」と述べて、東洋哲学にも興味を示した。

また晩年には、親鸞の歎異抄を通読したあと、「もし10年前にこんなすばらしい聖者が東洋にあったことを知ったら、自分はギリシャ・ラテン語も勉強しなかった。日本語を学び、聖者の話を聞いて、世界中に広めることを生きがいにしたであろう」と語ったという。

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