サルトルの実存主義

サルトルが愛人ボーヴォワールを伴って我が国を訪れたのは、1966年9月のことである。

その6年前、日本政府は敗戦による属国扱いから抜け出そうと軍備を増強し、米国と対等の地位獲得をめざしていた。その結果、岸内閣によって新安保条約が強行採決され、延べ400万人に及ぶ労組、学生、革新勢力との安保闘争がやっと終息したところであった。

国内には、戦後最大の国民運動にもかかわらず、結局得られるものは何もなかったという喪失感が漂っていた。

とくに若者の間にはそれが強く、巷に虚脱感が彷徨うなか、フランスから一冊の書物がもたらされたのである。それが「存在と無」であった。

サルトルの「存在と無」

著者は38歳の作家、ジャン=ポール・サルトル。

第2次世界大戦中、5000万を超える人々が容赦なく殺害されていく異常事態下で執筆された。

こんなことを繰り返していたのでは、我々人類は滅びてしまう。なんとかせねばという焦燥感から筆を執ったのではないか。

サルトルは惨状を前に、もはやこの世に神はいないと嘆息した。そして導き出された結論はこうである。

サルトルの実存主義

「実存は本質に先立つ」、つまり「我々の存在は生きている理由よりも前にある」と考えた。すなわち、我々はまず生まれ、その後なにものかになるのである。

決して何かのために存在しているのではない。何になるかは自分の頭で考えよ。自分のことは自分で選択して生きていくべきである。

この見失った自分を取り戻せという主張は「実存主義」と呼ばれ、サルトルの代名詞となった。

実存とは「現実存在」を略したもので、現実存在を本質存在より優位に置く思想である。

また彼は「人間は自由の刑に処せられている」という穿った言い回しをして、我々は自由の権利を得たかわりに、自分がすることには全責任を負わなければならないと警告した。

サルトル、戦後ヨーロッパを救う

ところで、ナチスに蹂躙されたフランスでは、戦後、人々の多くが心のよりどころを喪失し、無気力となった若者がパリの街にたむろしていた。

サルトルは人々の不安に立ち向かい、自由に生きることの意味を追求し、人間の尊厳を取り戻せと呼びかけた。そしてこれに呼応するように、虚無的な空気のなかから、自立への意欲が、ふつふつと湧き上がってきたのである。

その動きはゆっくりと着実にヨーロッパ全土に広がり、焦土と化した母国を再生しようとする原動力となった。

そして1967年には、松浪信三郎氏により「存在と無」は日本語に翻訳され、我が国にも紹介された。

それは安保闘争に疲れ切った日本の若者をも鼓舞し、奮い立たせたのであった。

そののち、サルトルは文筆に頼るばかりでなく、反植民地主義を唱え、民衆にアンガジュマン(社会参加)を呼びかけてベトナム戦争に反対した。

その積極的な政治行動は世界中の若者に支持され、彼は間違いなく時代の寵児となった。

実存主義を唱えたひとびと

こうして、サルトルといえば実存主義といわれるまでになったが、じつは実存主義はそれまで何人もの人たちによって取り上げられてきた。

実存主義を初めて唱えたのは、100年も前のキルケゴールである。彼は教会を経ずに自分の内面と対峙し、真理の追及をおこなった結果、キリスト教の神に会うことが、自分探しの到達点という結論に達した。

つぎに実存主義を唱えたニーチェは、キルケゴールと違い、キリスト教の愛と平等がひっきょう人間を卑小化し、本来の生き方を喪失させているとみた。

人は本来強く生きる意志をもった存在であり、もはやキリスト教にすがるべきときは去ったと宣言した。

今後は埋没した個性を脱し、創造的に生きようではないか。それに全力で夢中になれる人こそ超人といえるのだ(超人思想)。

このようにニーチエは、徹底したポジティブ思考で人々を鼓舞したのである。

次に実存主義を唱えたのは、現象学を奉じたフッサールである。彼はものごとを思い込みで判断せず、目の前の現象をじっくり観察し、新しいなにごとかを発見しよう。そして素直に感動できる直観力を養って、ものの本質に迫るべきであるとした。

さらにフッサールの弟子、ハイデガーは、哲学界にはじめて「時間」という概念を提示した。

そして、我々は確実に逃れようのない死に向かっていることを肝に銘じ、自ら決断して己の行く方向を定め、未来を切り開いていくべきであるとした。

それはどこか、我が国の幕末武士道にあった死生観を彷彿とさせる。

サルトルは若いころ、ベルリンに留学し、フッサールの現象学を探究した経験がある。

彼の実存主義は、この現象学とともに、ハイデッカーの存在論をバックボーンに成立しているとされる。

サルトルの訪日

1966年秋、サルトルは自身の著作の翻訳や研究者が多い慶応大学の招聘に応じて来日した。

マスコミは、歴史上初めてノーベル賞を辞退したという時代の寵児を、最大級の賛辞をもって迎えた。

空港での記者会見で、サルトルは訪日の目的を尋ねられ、じつは若い頃に教師として日本に赴任したいと願ったが、採用されなかったと答えている。

そして一カ月間日本に滞在して、各界の有識者と会談し、講演の合間を縫っては全国各地を訪問した。講演はいつも大盛況であった。

このころが彼の絶頂期であったといえる。

よき伴侶・ボーヴォワール

同行のボーヴォワールとは学生時代、主席を争った仲である。

ふたりは実存主義の立場から自由意思に基き、婚姻も子どもを持つことも否定し、終生、よき伴侶として生活を共にした。

彼女は著書『第二の性』で、「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」といって性差別に強く反対した。

つまり、女性らしさというものは、生まれもったものではなく、社会、 文化的につくられるものだとして、女性解放運動に身を投じた。

その後のサルトル

時流というものがある。

サルトルの実存主義は、混沌の時代、確かにひとびとの精神的支柱たりえた。

しかしその後、世界が安定成長期に入るにつれ、サルトルは次第に忘れ去られることとなった。

とはいえ、60年安保を経験した世代にとって、サルトルは今も輝ける存在であることに変わりはない。

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