「方丈記」そして「草枕」へ

そのひとにぜひ会ってみたいと思わせるような魅力ある文章に出くわすことがある。ところが、いざ会ってみると、想像していたのとは余りの違いに失望したという話しを、しばしば耳にする。

展開される世界は作家の目を通した独自の世界であり、私たちが勝手に、その世界に酔っていただけということになる。

 

また世の中には、どうしても周りの人とうまく順応できないため、社会の仕組みのなかに安住できず、独自の生き方を模索するのだが、さりとて納得のいく方法がみつからないと引きこもりに入り、無為徒食の日常から抜け出せなくなってしまう人たちがいる。

彼らはいやになったら何もかも投げ出してしまう習癖があり、半分だけ我慢するというような芸当はできない。

 

落ちこぼれ・鴨長明

 鴨長明の生きざまを見ていると、どうもそのような人物像が浮かび上がってくる。

賀茂御祖(かもみおや)神社(通称、下鴨神社)といえば、平安時代には京の都の守り神、皇室の氏神として、式年遷宮や斎王の制度まで設けられていた格式高い神社である。

彼はその下鴨神社の神事を統率する鴨長継の次男であり、普通に過ごして居れば何不自由ない生活ができたはずであった。

 

しかし、彼にはそれができなかった。自己抑制が効かず、神職の務めすら果たせないとして、一族の信望を失い、後継者候補から脱落した。

30歳ころには、妻子とも離別し、社会の脱落者として、以後20年近く、世捨て人の人生を送るようになる。こういう人物が世に埋もれず、後世語り継がれるようになるとは、驚くべきことといってよい。

 

歌人・鴨長明

 じつはそれを物語るに足るだけの異能が、彼にはあった。生活者としては失格者だが、その文才は異彩を放っていた。

若い時に打ち込んだ和歌の修業が実を結び、長明47にして、偶然その作品が、歌人・後鳥羽上皇の目に留まったのである。一朝にして長明は、上皇が計画した勅撰「新古今和歌集」の編纂委員に抜擢されることとなった。

 

それは当代一流歌人の証明ともいわれ、感激した長明は人が変わったように、仕事に没頭したという。

メンバーは中世の代表的歌人といわれる藤原定家、藤原家隆、寂蓮をはじめ、慈円(天台座主)、九条良経(太政大臣)など超エリート集団であり、ひとり身分の低い長明は、さぞかし身の縮む思いであったろう。

 

そのうち、ここでの精励を快く思った後鳥羽院の一声で、長明はいきなり河合社の禰宜という高級ポストに推挙された。長明の喜びは尋常でない。

しかしこれには、神職関係者から猛烈な反対運動がおこった。長明の過去の行跡が悪すぎたのである。結局この話は流れ、すべては、ぬか喜びに終わった。

 

遁世者・鴨長明

 落胆した彼は、後鳥羽院に斡旋された別の就職先にも首を縦に振らず、いきなり出家して洛外の大原、数年後には日野の山中に隠遁してしまった。

50を過ぎて老境に入っても、思うようにならないと何もかも投げ出してしまう悪癖は治っていない。

 

ただ俗世間を離れて隠棲し、すべてを捨て去って、はじめて彼は心の安寧を得た。

山中より世間を眺めてみれば、この世は貴族から武士の世へと激変し、飢饉や地震が相次ぐなか、釈迦の教えが行きわたらぬ末法の世となっている。

あらゆるものが生まれては滅び、常住することがない。まさに諸行無常の世界である。

 

方丈記を執筆

 こうして62才で他界するまでの十数年間、彼は4畳半ほどの小さな庵に棲み、後世に残る「方丈記」を記すのである。

いったい彼はどういう気持ちで「方丈記」を記したのであろうか。

 

「思えば自分の人生は世間との折り合いがつかず、挫折につぐ挫折の人生であった。しかし遁世、出家してからというもの、他人への恨みも消え、生きることへの恐れも嫌悪する心も無くなった。今望むことは、日々美しい景色を眺めることだけである。」

 それは隠遁しなければ知り得なかった世界で、昔の自分を思えば、今のほうがよほど幸せである。この喜びを形にして残しておきたい。そんな高揚した気分であったろうか。

さらには、「決して都の人に向かって嫌味を言っているのではない」と念を押している。

 

長明の本音

 しかし、長明の本音は、この書を都の富める貴族の目に触れさせたかったのではないか。

彼らから「落ちこぼれ」の烙印を押されたまま、人生を終わるのはいかにも悔しい。案に相違して、自分はこんなにも幸せだけど、逆にあなた方はどうなのかと、切り返したかったのではないか。そこには、かすかに負け惜しみの匂いもする。

 

しかしその一方で、自戒の念を込めてこう語る。

「わたしはある程度、悟りを得たように思っていたが、執着を捨てよという仏の教えに対しては、草庵を愛することも罪となる。静けさにこだわることも、悟りの妨げになるのだろう。自分は僧の姿をしているが、心は煩悩で濁っている。まだまだ悟りの境地には程遠い。」

こう言って、方丈記は終わっている。

 

生き残った「方丈記」

 方丈記は原稿用紙にして20枚ほどの随筆であるが、当時は出版して世に出すわけにはいかないから、ひとの目に留まらず、世に埋もれてしまっても不思議でなかった。

それが800年の風雪に耐え、今日まで多くの読者を得たことは、まことに同慶の至りである。

 

何といっても、書き出しが上手い。一見して読者の心をつかんだことが幸いしたのではないか。

「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。 淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。 世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。」

 

今の高校生にこのフレーズを知らぬ者はいないと言われるほどに、方丈記はリズミカルで耳に心地よく、腑に落ちる。鎌倉時代に書かれた書物のなかで、もっとも有名になったことに、長明もさぞかし驚いているに違いない。

 

「方丈記」そして「草枕」へ

 後日譚がある。

漱石が東大英文科の学生だった頃、英語教師ディクソンに「方丈記」の英訳を依頼されたことがある。ディクソンが「方丈記」の講演をするにあたり、英語にもっとも堪能であった彼に白羽の矢をたてたのである。

じつに漱石は学生身分でありながら、江戸期に至るまで災害文学・閑居文学とみなされていた「方丈記」を、改めて「自然文学」として読み解き、これを英訳した。

漱石の名訳のおかげで、ディクソンの講演は好評裏に終わったという。

 

方丈記の文中、このようなくだりがある。

「財(たから)あれば恐れ多く、貧しければうらみ切なり。人を頼めば、身他の有なり。人をはぐくめば心恩愛につかはる。世にしたがえば身くるし。したがわねば狂せるに似たり。いづれの所をしめて、いかなるわざをしてか、しばしもこの身を宿し、たまゆらもこころを休むべき。」

(財があれば心配になるし、貧しければうらみがましくなる。ひとを頼りにすると結局、その者に支配される。だれかの面倒をみれば愛情にしばられる。世の常識に従えば窮屈だが、従わないと狂人あつかいされる。どのように生きても、結局この世に心休まるところはない。)

 

後年、作家となった漱石はこう書き始めた。

「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。」

「草枕」を執筆するにあたり、この方丈記の一節が漱石の頭をよぎったのは間違いあるまい。

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