力を抜くということ

かつて当院にマスターズ水泳の全国チャンピオンが通院していて、70歳をすぎても毎日数キロの遠泳が楽しいと語っていたのを思い出す。

華奢な体のあなたがどうしてそんな過酷なトレーニングに耐えられるのか不思議だというと、泳ぐのに力は何も要らないのです。

私にとっては、歩くのも泳ぐのも同じことだという。

要らない力はできる限り抜くということであろうが、まことに仙人を見るようなおもいであった。

学生時代、フルートを習い始めた。

すこし吹くとすぐ息切れして続行不能となり、ぶざまな有様であった。

テレビ講師の吉田雅夫氏(芸大教授)は肺活量3000mlの小柄なかたであったが、私が3度息継ぎするのを1度で済まして平然としていた。

わずかの呼気がすべて音になるから吸気はちょっとでいいと言わんばかりであった。

したがって、息継ぎも会話の間のそれと変わらず、姿勢が崩れなかった。

以後、演奏家の姿勢や息継ぎに注目しているが、達人と言われる人は、舞台の上でも力みがなく、姿勢が崩れないことを思い知った。

私の中学・高校時代には、テニスをする男どもは短いスカートの女子部員に擦り寄る軟弱な輩と烙印を押されかねない気配があり、容易に近づけなかった。

しかるにテニスは30を過ぎて始めたためか、20年以上続けているのに技術の向上はみられない。

ただ1度だけ、俺の能力はこんなものかと諦めたとき、急にうまくなったとまわりに誉められた。

そのとき、からだの力が適度に抜けて、ボールを捉える瞬間だけうまく力が入っていたようであった。

なんだそうか、まんざらでもないなと思った途端もとにもどってしまった。

素人とはかくの如しである。

わたしは30年ほど内視鏡を使って胃腸の中を調べる仕事をしている。

最初は手元に力が入って、腕も手もくたくたになった。

慣れてくるに従って力が要らなくなり、相手も痛がらなくなった。

なんだこんなものかと、たかをくくっていると、途端にうまくいかなくなる。

力は入れすぎてもいけないし、抜きすぎてもうまくいかない。

適度な力を適切なときにうまく使わないといけないということなのだが、悟ったつもりになっても翌日には元に戻ってしまう。

いまだにそんな毎日を送っている。

今年も夏の甲子園が始まり、ベンチの監督がバッターボックスの打者に、肩の力を抜けと指示するいつもの光景がみられる。

それを懐かしく眺めながら、適切なパワーはうまく力の抜けた状態から発揮されるものだと感じることである。

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