アザラシ報道

12019 / Pixabay

アザラシの目の上に釣り針がささっている。あの角度で針を刺入するには誰かが操作しないとできまい。

心なきものがマスコミの眼を盗んで捕獲しようとして失敗したものか。なんとかしろという声が日増しにつよくなっている。

しかし、のた打ち回っているわけでもないし、相変わらずのほほんとした表情である。それがまた人気を煽っているかのようだ。痛そうだというのは あくまで人の視点からみた勝手な意見でもある。

若い時、魚釣りに誘われた。魚のあごに食い込む釣り針がうまく抜けず、魚はのたうちまわり散々であった。以後、釣りは気が進まなくなった。

釣った魚をまな板の上でさばこうとすると、暴れていても観念して、急におとなしくなるという話を聞いた。魚にも“観念”という心境があるらしい。

宴会には身を削がれた鯛が生きたまま大皿に乗せられ、円卓を彩る。断末魔の喘ぎを眺めながら、さすがに生きがいいと舌鼓をうつ光景は決していい趣味とはいえまい。罪な話である。

魚にはずいぶん冷酷なひとが、なんでアザラシごときにそんな配慮をするのか?片手落ちではないかという声も聞こえてきそうだ。

しかし、川にアザラシという意外性、癒しの条件を備えたあの風貌は、長期化する不況のなかで、多くの日本人をほっとさせているのも事実である。

いやいや、それにしても、生きることに精一杯のイラクや北朝鮮の人々は、日本のアザラシ報道には呆れてものが言えないというだろう。

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