気持ちを伝えるということ

敬愛するT教授が若かりし頃のはなし。

大学生であった先生が、はたち前の女性と恋におちたが、両親の許しが得られない。

自分は大学をやめて働くから、明日駆け落ちしようということになった。

相手の女性も必ずついていくと言ってくれた。

それが最後の出会いとなった。

翌日、約束の場所に現れなかった彼女は、一言の説明もなく自殺してしまったという。

50年が経とうとする今も、どうしてもそのときの彼女の気持ちが分からない。

自分の身勝手な情熱が空回りし、相手に気持ちが伝わっていなかったのではないかという自責の念にかられているというはなしであった。

30年前、新米医師として高知に赴任したときのはなし。

腹痛で来られた初老の男性に胃の検査の結果、大きな胃潰瘍ができているので、できれば入院して治療したほうがいいと思うと説明し、薬を処方した。

そう言ったつもりであった。

翌日早朝、病院の守衛さんが玄関のドアをたたく音で目が覚めた。

表にでてみると、昨日の患者さんが、自宅で首をつって死んでいるので、すぐ来てくれという。

警察官の立会いのもと、遺体の検死がおこなわれた。

頭の中は真っ白となり、なんでこんなことに?という疑問が、駆け巡った。

おそらく、このひとは私の説明に死を選ぼうとするほどのショックをうけたのに違いない。

私は独りよがりの説明に終始し、動揺する相手をよく見ていなかったということになる。

自分としては誠意ある診療をしたつもりであっただけに呆然としてしまった。

気持ちを伝えることの難しさを身に沁みて思い知らされたことであった。

ことばは生き物であって、同じことを言っても、ことばの調子や勢いで受け取る側の反応は全く違ってくる。

しかしそれだけではあるまい。

いかに誠意をもってしても、相手に真意を理解してもらえない”ことばの限界”というものがあるようだ。

“表現不足”と一刀両断してしまえないほどに、自分の気持ちを伝えるには、ことばは余りに不足しているという気がしてならない。

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