退屈に耐えるということ

今や東京では、医学関連の学会や研究会が連日のごとく催される時世となった。

医学の進歩がこれだけの発表の機会を必要としている。

われわれ地方に住むものは、その中から選んで年に数回、上京するのを常としている。

飛行機を使えば1時間ほどの距離であるから、日帰りとて不可能ではない。

昨日もその研究会で上京していた。

今 朝、会場になったホテルの庭で、中年の外国人夫婦に出会った。

庭の中ほどにある池をバックに、交互にシャッターを切っている。

日本庭園がよほど気に入ったらしい。

その庭園についてである。

室町以来、日本庭園は書院造りとともに現在の家屋の様式を形作る基となった。

我らが祖先はさほど広くない土地に家を建てるだけでは落ち着かず、僅かばかりの庭を作って納得するようになった。

さらに余裕があると池をつくって鯉を泳がせるのを風流とした。

盆栽をみて終日過ごすのも、おそらくこのあたりを源流としているのではないか。

禅宗が産んだ我が国独特の文化であろう。

日本より小さな国でこのような光景を見ないのは、国土の広狭とは関係ないことを示している。

室町期、禅宗の興隆で座禅が重視された結果、”仏像”よりも”静謐な空間”が求められ、庭園文化が花開いた。

義満が贅をつくした北山文化のおかげで、鹿苑寺や西芳寺庭園を今に楽しめるし、幕府の資金が底をついた義政の東山文化においても、枯山水という新手をつかって、龍安寺などの見事な庭園を残してくれた。

ただ、当時の飢えた民を無視した放蕩の結果ともいえるが・・・。

600年たった今、我々は日々の生活のなかで、禅宗についてはすっかり忘れてしまったが、庭園文化だけは後生大事に守ってきたように思われる。

しかしそれも最近怪しくなってきた。

庭があると虫が発生して困るという声を聞く。

美観よりも快適な住居が優先され、庭園は必ずしも必須条件とはいえなくなってきた。

書院造りも洋風建築に押され気味だ。

外国人が去った後、池に目をやると錦鯉が数尾近づいてきた。

その動き方や驚くばかりの悠長さだ。

彼らは一体、何年この狭い池に棲みついているのだろう。

その動作からはどうみても窮屈さに悩んでいるふうはない。

このぶんではどんな退屈にも耐えられそうだ。

のたりのたりと遊泳する鯉を見やりながら、はたして人は鯉の悠長さに耐えられるかと考え込んでしまった。

我々は大病でもしないかぎり、1ヶ月も自宅を出ないということはない。

もしそんなことになれば、多くは気が滅入って鬱になってしまうだろう。

独房に入れられた囚人は狭い空間と退屈に我慢し切れず、発狂しそうになるというではないか。

週休2日になって退屈で困るという声もしばしば聞く。

自分たちは無意識に時間に追われる生活を楽しんでいるところがあるようだ。

忙しいのは我慢できるが、極端な退屈には耐えられそうにない。

この点において、鯉は人にまさっている。

人間とは、かくも情けない存在であることかと思った次第である。

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