勝負はほどほどに

alles / Pixabay

オリンピックは地球規模の運動会であるから、終わればそれまでのことであって、次の大会までにはすっかり忘れてしまうのが、人心というものである。

今大会、素人目にも、シンクロやソフトの監督のオリンピックに賭ける情熱は尋常でなく、燃え尽きた後のすがすがしさが印象的であった。

そこへいくと、プロ選手で固めた野球の3位は拍子抜けの感があった。

意外なことに、オーストラリアの野球が日本野球にまさっているのを最後まで認めようとしない専門家が多かった。

2度負けてなお100にひとつも負ける相手ではないと言い張るのは不遜であって、これを聞けばオーストラリアの反感を買うのは必定だろう。

松坂は多くの三振をとって調子はすこぶるよかった。

それにもかかわらず、僅かの失投を見逃さなかった敵を天晴れであるとは、だれも書かない。

国民が喜ばないからである。

日本の敵はキューバであってオーストラリアではないとマスコミは書き続け、我々は洗脳されていたということになる。

選手自身も負けるはずのない相手とたかをくくっていた。

2試合やってみて、容易に勝てぬ相手だと納得したが、いまさら知らなかったとはいえない。

我々はつねに世の中を正当に評価している積もりになっているが、情報は主観によってつくられるがゆえに、必ずしも正確に伝わるとはいえない。

金メダル候補が金をとらないと国賊扱いするのは低文明国の証のようにおもわれるが、一方、報道関係者の身勝手なインタビューに腹立たしい思いをするのは自分ひとりではあるまい。

選手が身も心も臨戦態勢にはいっているとき、執拗に心境を尋ねる愚はなんとかならないものであろうか。

わが民族は勝者に美談を求める一方、敗者に見向きもしない冷たさをもっている。

敗者にも当然ドラマがあるが、日本社会はそれを受容するほど成熟していない。

愛ちゃんのごときアイドルは別の意味で勝者であって、画面に登場するだけで国民は納得するから、他の卓球選手は全く報道されないという不公平に誰も文句を言わない。

おもいやりで視聴率は上がらないからこの方針が変わることは当分ないだろう。

女子マラソンは野口が勝って、だれも高橋を話題にしなくなった。

日本選手が金をとれなかったら高橋の価値は燦然と残ったが、突如、過去の人の扱いとなった。

そのわびしさに彼女はいま耐えている。

しかももう1度走って負ければ引退は必須であって、彼女の名声がいかに残るかの瀬戸際である。

走るのも容易なことでない。

一番を金、2番を銀、3番を銅としたのは人間の勝手であって、4番以降は蛇足というのも人間の勝手にちがいない。

しかし首にメダルをぶらさげる快感は何物にも変え難いらしく、4番に対する3番の値打ちは想像をはるかに超えるものらしい。

体操男子が団体戦優勝を飾った。

種目別ではさほどの成績を残せなかったため、がっかりしたファンは多かった。

これがもし逆に種目別が先で、団体戦が後であったなら、さぞかし狂喜していたに違いない。

それにしても最後に逆転した鉄棒の演技に、アメリカチームから拍手がおこったのは印象的であった。

プレッシャーのなかでの完璧な演技に、参ったという表情が見て取れた。

しかしあれを日本人選手がやっていたらどうだったかと、ふと考え込んでしまった。

無念の表情をするべきで、拍手などとんでもないといわれそうだ。

この点アメリカの大陸的気分の余裕というものを感じ、狭小な国民感情を恥じ入った次第である。

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