江藤新平の無念

先日はじめて佐賀を訪れる機会があった。

年来の友人に佐賀人がひとりだけおり、実直なひとだけに、なんとなく佐賀の印象がよかったのである。

強いて言えば、有田の焼き物と呼子のいかが目的の旅である。

福岡から佐賀へ入ると、一面の山野は緑に輝き、人家の少なさと車の往来のなさが狭い道路を窮屈に感じさせない。

喧騒や洪水のごとき人の群れは旅情をかたく拒否するが、佐賀でみかける人々の緩慢な動きに安堵した心持となった。

有田を経て呼子へ到る道は旧街道をおもわせる風情があちこちに散見される。

ふと”佐賀の乱”が頭をよぎった。

かつて大久保の陰湿な策謀にのせられ、この佐賀平野に繰り出した5000の士族の無念を感じた。

佐賀人で自分の記憶に鮮明なのは、なんといっても江藤新平につきる。

佐賀藩下級武士の出で、勤王の志士として活動後、維新政府の司法卿となりわが国の司法制度を確立した人物である。

その弁舌は当代一といわれ、論敵からおおいに恐れられた。

明治6年の政変は大久保利通と岩倉具視の策略によるだまし討ちといわれる。

西郷・板垣らに組し征韓論争に敗れた江藤新平は、我慢がならなかった。

論争の是非はともかく武士道に反する大久保らの行為は許せなかった。

しかし一時の感情で暴発するがごとき短慮な人間とは対極にいる人物である。

なぜ彼は暴挙にでたのか。

それが長年の疑問であった。

下野した彼のもとには、ぞくぞくと不平士族が押し寄せてきた。

維新政府の参議であった彼は、政府の軍事力を熟知していたはずである。

たかだか5000の兵でどうなるものでない。

一度となく彼は慰留したはずである。

しかし島義勇の「ことが成功するかせぬかを論議すべきではない。

武士は起たねばならぬときに起ち、死ぬべきときに死ぬ。

」という幕末武士道が正論とされた。

その場の雰囲気からして、もはや反論しても無駄と江藤は観念したに違いない。

ついに彼は希望的戦略を口にする。

「佐賀が立ち上がれば、薩摩の久光も西郷も立ち上がるだろう。

さすれば土佐の板垣も立ち上がる。

その連合で孤立した長州を撃ち、その後、残る薩摩を土佐と連合して撃てば、政治は天下おおやけのものとなる。

」これを耳にした大久保は謀略を発し、佐賀県令(知事)に岩村高俊を送り込み、江藤を支持する征韓党を挑発した。

うかつにも、これに応じた反乱軍は予想どおり一挙に鎮圧され、江藤は薩摩に逃げて西郷に応援を頼むが、彼は動かなかった。

軽率ではなかったかと言いたかったのであろう。

逆に「身の始末はどうするおつもりか?」と問われた。

江藤は「自分の身などどうなってもかまわない。

政治的所信を貫くためにのみ生きる。

」と答えたという。

その後、彼は土佐に逃げ、板垣に決起を促すが賛同を得なかった。

しかたなく徳島へむかう途中、彼は皮肉にも自分自身が整備した幕吏の手にかかり捕縛された。

しかし、この期に及んでなお、彼には目算があった。

士族を含む1万の反乱軍をいちいち審問し、裁いていくには膨大な時間がかかる。

その長い裁判闘争の間に、法廷に立ち藩閥政治の非を天下に知らしめれば本望であるとした。

しかし大久保の用意周到は尋常でなかった。

反乱と同時に佐賀に入った彼は、江藤逮捕の報に接し「間違っても東京に送ってはならぬ。

」といって、江藤の目算をくじいた。

彼は佐賀に移送された翌日、裁判にかけられ1週間で斬首の刑に服することになる。

有無を言わさぬ暗黒裁判である。

政府に逆らえば獄門さらし首になるという恐怖を不平士族に植え付けようとしたのである。

さらに大久保は、江藤を憎むあまり、彼のさらし首を写真にとり巷に流したという。

こ の陰湿な残忍さゆえに、大久保は維新最大の功労者でありながら、世の人々から評価されなかったのである。

幕末武士道は、私を捨て義に生きるために、いかに美しく生き、いかに見事に死ぬかを命題とした倫理観である。

吉田松陰も江藤も西郷もみなこの武士道をもって、自分の身の証としたのである。

今の世に、この武士道は懐かしい思い出となって我々の心に残ることとなった。

平和というものの大きさを実感したことであった。

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