車がゴミとなる日


車の運転を始めて40年近くになる。

以来、車は人と荷物を運ぶだけの道具と考えてきたが、昨今の世相をみるに、車は乗るためでなく、ひとに見せるためにあるのだと納得した。

この15年、同じ車を乗りつづけるのに違和感は持たなかったが、もはや排ガス規制にパスしないしろものなのだという。

理屈はともかく15年も運転席に座る続けると、その居住感は自宅の居間のごとき居心地となる。

とまれこの車の出す二酸化炭素が地球温暖化の原因だといわれれば、廃車もやむをえまい。

聞くところによれば、我々は45億年かけて出来た石油をわずか150年で使いきろうとしているらしい。

その消費の最たるものが車であるとなれば、ハイブリッド車にもっと目を向けるべきなのだが、石油をがぶ飲みしている米国の車社会でもその普及はわずか1%にとどまっている。

20年後には、燃料電池車が4分の1から5分の1まで普及するという目算を日米ともに立てているが、石油がなくなればもっと早く水素社会が到来する可能性は高い。

無計画な石油資源の消費もさることながら、廃棄物の再使用、再利用(リサイクル)、廃棄処分という課題にどう答えを出すかはさらに難問だ。

生活物資として開発された化学物質やその廃棄物から発生する内分泌撹乱物質(環境ホルモン)は、70種類もあげられており、無精子や不妊症など人類存続の危機さえ感じさせる。

とりわけプラスチックや生ゴミの焼却で発生するダイオキシンは、青酸カリの1000倍、サリンの2倍という猛毒である。

これらは土壌に沁み込み野菜やそれを食べた牛・豚・鶏を通して、また河川から海に流れ、それを食べた魚を通して我々の口に入る。

ダイオキシンの発生をおさえるには、800度以上の熱で焼却すればよいのだが、そんな大型焼却炉は数少なく、いまだ未解決となっている。

さて、一般廃棄物の代表、生ゴミをみてみると、台所ゴミの40%は食べ残し、そのうち15%は手付かずの食品だという。

終戦直後わずか40グラムであった1日の家庭ゴミは、いまや1キロを越えることになった。

これに対し、倹約でなるドイツ社会では、1週間分のゴミでもバケツ一杯までという。

廃棄物処理を考える前に、まずゴミを出さない努力が求められよう。

ゴミを出さない点では車も同様である。

流行があるから、つぎのモデルを追いかける。

10年はモデルチェンジがないとなれば、諦めて乗りつづけるほかはないだろう。

したがってゴミは出ないわけだが、我々はそこまで子孫のことを思って生きてはいない。

資本主義はむだな消費がなければ成り立たないとうそぶきつつ、 ニューモデルの車、パソコン、携帯電話へと、心ときめかしているのである。

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