恐るに足らず近所の目

MichaelGaida / Pixabay


どんな社会でも、ひとりで生きてはいけぬから、まずは隣人を頼るのが世の常であった。

ところが、終夜開いているコンビニやスーパーが氾濫したおかげで、隣家の助けを求めることなど、ついぞ絶えて久しくなった。

さらに加えて、知らない人とは口をきくなという世相を反映して、隣人といえど 目を合わせるのを避ける世となった。

この要望に応えて、わたしの町でも街中に大型のマンションがやたらと増え続けている。

マンションのエレベータで、気さくに子供に話しかけたら、とたんに形相を変えられ二の句が告げなかったという話を見聞する。

うちの周辺では、10軒ほどがひとかたまりになって町内会を形成し、回覧板の配布、花見、運動会などの世話を交代で行いながら親睦を深めている。

ただし、隣接するマンションは除外されており、そこばかりは特別自治区のごとき感がある。

このまま特別自治区が増えつづけると、そのうち町内会は自然消滅する運命にある。

いまだに町内会の結束がつよいところでは、向こう3軒両隣に気を配る窮屈な社会が健在である。

それが昂じると互いの冠婚葬祭にも深く関与し、仕事を返上してでも参加しないと、のけ者にされるという。

この異様な緊張はおそらく大人だけにかぎったことではあるまい。

子供とてこういう社会に住めば、近所の目を意識せずには過ごせない。

おかげで、町内の悪童は悪行を自制するようになった。

無論、かつてわが国では、それが自然の風景であった。

これに反し、マンションに住む現代っ子には近所の目などまったく眼中にない。

いまさらマンションを出て、この窮屈に堪えられる子は皆無であろう。

彼らは成人しても、挨拶ひとつせずに済む快適な”マンション”を選ぶに違いない。

こうなると未来の日本社会は、ものいわぬクールな世界になりそうである。

ところで、子供たちの興じるテレビゲームをみて驚くのは、格闘や武器による殺人ゲームの氾濫である。

いとも簡単に相手を打ちのめしていく。

充足感ではあっても、爽快感とは幾分異なるようである。

昨今、少年による幼児虐待が目立っている。

ただなんとなくやってみたかったという未熟な発想の根底には、殺人ゲームに洗脳され自宅にひきこもって空想にふける少年の姿が見え隠れする。

見ていると、ゲームに熱中する子はそばにいる友とすら会話することがない。

驚くべきことに、会話せぬまま友と別れ、帰宅してからメールで連絡しあう奇妙な現象が日常化している。

隣人と話すことをやめた特別自治区に発生した文化なのであろうか?とまれ自由を求めつづけると安全を失うことに気づいて、親もまた戸惑いを隠せない。

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