弔いのかたち


古墳は墓地である。そもそも一人や二人を埋葬するのに、大きな墳墓が要るはずがない。

卑弥呼のあとの古墳時代には、全国に10万もの古墳が出現したが、それは多分に周辺部族への示威と威嚇が目的である。墳墓の大きさで勢力を誇示しようとした。

したがって大和政権が畿内を統一してからは、当然のごとく古墳は激減した。

我が国はもともと土葬であったが、奈良時代に入り、仏教の影響で身分の高いものに火葬がおこなわれるようになった。

最初の火葬は法相宗の祖・道昭におこなわれ、その2年後、天皇家でも持統天皇自らの希望で初めて火葬が行われた。

その後、天皇家では土葬も火葬もどちらも行われたが、室町時代中期からは火葬が定着した。歴代122人の天皇のうち火葬せられた天皇は41人といわれる。

その後江戸時代に後光明天皇が神道にのっとり土葬を復活させ、幕末の孝明天皇からは完全に土葬のみとなった。

しかし終戦後、皇族の土葬は廃止されることとなり、唯一天皇と皇后のみ土葬が継続されることになった。

ちなみに現在の天皇は、ご本人の希望で350年ぶりに火葬されることが決まっている。

奈良時代、東大寺大仏造営の立役者・行基は全国のインフラ整備に尽力し、畿内数カ所に火葬場を設置したため、わずかながら火葬も行われるようになった。

平安時代になっても、我が国の人口は600万人ほど。京の都でもせいぜい20~30万人程度である。

この時期、貴族階級では火葬、土葬のいずれも行われていた。ただ、京では洛中で火葬することは禁じられており、鳥部野、化野(あだしの)など郊外の5カ所に火葬場が設けられた。

当時貴族の多くは、神道の影響から死体による穢れを嫌い、自宅が穢れるのを避けるため、死期が近づくと病人を氏寺にひとり置き去りにし、家族が寺に通って死を看取った。

そして死後は、死体に近づくのを恐れ茶毘には立ち会わず、配下のものに任せて宇治へ土葬させ、自分たちは京の寺に参拝して供養したという。

一方庶民は、山、海辺、河原などの決められた場所へ死体を棄てる風葬が一般的に行われていた。死体は犬やカラスに食われ自然に風化していたとみられる。

平安の半ばを過ぎると末法思想が広がって、厭世感が世を覆うようになった。

このため、念仏を唱えて極楽往生させてもらおうとする浄土教が、貴族ばかりか一般庶民の間にも一挙に広まった。

恵心僧都源信は、浄土教が比叡山僧侶の学問だけに留まっているのを憂い、貴族に「地獄と極楽世界」を呈示する一方、遊行上人空也が庶民に念仏を勧めて回ったからである。

我が国古来の神道では死という穢れを忌み嫌うだけで、死への不安は解消できない弱みがあった。

そこで、死に関する儀礼は仏教が担当することとなり、浄土に往生するための臨終作法が形作られた。

鎌倉時代に入ると、新興宗教である浄土宗、浄土真宗、禅宗、日蓮宗が次々に登場した。

とくに法然は、修行者だけに開かれた聖道門を否定し、誰でも称名念仏すれば阿弥陀如来に救われるという浄土門仏教を唱えた。

彼は阿弥陀如来というバーチャルイコンを設定し、他力本願はまさに阿弥陀仏の本願であるという発想の大転換を示したのである。

これに対し、比叡山で苦行する僧侶にとっては、念仏だけで極楽往生できるなどという主張は許しがたいものであり、仏教界を震撼させる大事件となった。

このころ、庶民の風葬による不衛生が目に余るようになったため、鎌倉幕府は遺体を放置しないよう禁止令を出している。

さらに、新興宗教の法然や親鸞が親孝行の手段として葬儀を勧めたため、徐々に土葬が広まっていった。埋葬する墓所には所有する田畑の端や、村落の共同墓地が使われた。

一方で、鎌倉時代実権を握った武士にとって、戦闘者として無心になり心を平静に保つ坐禅は好感をもって受け止められ、禅宗は彼らの間で濃厚に浸透した。

同時に頻繁にでる戦死者を弔うため、葬法が発達した。

その内容は、死者に戎を授け正式の仏弟子にする「授戒」と、仏の世界に導き入れる「引導」が中心で、深い境地に達した「尊宿」の葬儀法と、尊宿に至らなかった「亡僧」(一般庶民)の葬儀法に分けられた。

この葬法は、中国で僧侶のために作られた『禅苑清規』を参考に作り変えられたもので、これが他の宗派の葬法にも影響を与え、広く一般庶民にも使われるようになった。

とくに、阿弥陀仏が煩悩から抜け出せない私たちを救ってくれるという阿弥陀信仰は国民的支持をうけ、死に臨んで阿弥陀像が握る五色の幡を死者にも持たせ、念仏を唱えながら成仏を願う葬法が広く行われるようになった。

また、もともと寺院に死体を収容する発想はなかったが、平安時代より貴族を中心に寺に遺骸を納める風習が発生し、時代を経るに従い、葬儀は寺院の主たる業務になっていった。

室町時代、武士の間では氏寺を拠点にして、祖先祭祀が盛んに行われるようになり、一方庶民の間では自治組織「惣」が形成され、村落内で葬儀を担当する葬式組がつくられた。

寺院は貴族や武士の葬儀や法事に積極的となり、様々な仏事が編み出されていった。

江戸時代に入り、幕府は寛永12年(1635年)、キリシタン弾圧を目的に国民全員に菩提寺を決めて、その檀家となることを強要した。

その結果、寺院は住民の戸籍事務を司る機関となり、僧侶の許可なくして死者の埋葬はできなくなった。葬儀は菩提寺の僧侶により、死者を仏弟子となるべく発心した者として戒を授けてもらい、引導、成仏させる儀式となった。

ただし浄土真宗ではすでに極楽浄土に迎えられているという理由で、また日蓮宗でもすでに戒を保っているという理由で、再度戒をうけることはしなかった。

葬儀のあとは納棺して土葬されるが、浄土真宗では火葬したのち埋葬されることが多かった。江戸では小塚原、鈴ヶ森など数カ所に火葬場が設けられたが、時代を経るに従い都市部では、寺院の境内に火葬場を設置するケースがみられるようになった。

当時は地面に穴を掘って薪を積み重ね、その上に棺を置きさらに薪を重ねて火葬した。ただし、火葬にはかなりの費用が発生するため、庶民のほとんどは土葬であった。

骨はすべてを持ち帰るのではなく、のど仏の仏の形をした小さな骨を持ち帰るだけであったという。そしてこれを機に、庶民は菩提寺に先祖の墓を建てるのが一般的となった。

ちなみに将軍家の菩提寺は港区の浄土宗・増上寺と上野の天台宗・寛永寺であった。

明治時代は仏教界受難の時代である。藩閥政府により神仏分離令が出され神道を国教としたことにより、全国で廃仏毀釈の嵐が吹き荒れたからである。

そのわけは、江戸時代の寺院が檀家制度を利用し、冠婚葬祭に法外なお布施や無理難題を強要したことにある。

このため全国の寺院は経営困難となり、葬式による収入に依存せざるを得なくなった。

当時の庶民の埋葬は依然として土葬が圧倒的で、火葬は大都市を中心に一割程度であった。

昭和に入っても、国民の多くは土葬であったが、太平洋戦争後、墓地・埋葬法が制定されて火葬の普及が進み、昭和40年頃までは30%台であったが、現在はほぼ100%の普及率となっている。

こうしてみると、我が国では埋葬をどうするかという大事にもかかわらず、火葬をたやすく受け容れる土壌があったことになる。

おそらく仏教の、「死」をどうにもならないものとして受容する姿勢や、肉体は死んでも魂は死滅しないという精神的風土に起因するのではないか。

それゆえ遺体の扱いをさほど問題視しないのではないかといわれている。

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